タイトルはプルタルコスの「モラリア(倫理論集)」からであり、このモラリアには4つのエッセイが集められている。
インキュナプラの時代でプルタルコスの比較列伝(英雄伝)の装飾写本をみたのでプルタルコスを読もうと年末から思っていた。エッセイであるので、何かの待ち時間などに丁度いいのだが、本文は大変的を得ているのでいくつか引用する次第。
「・・・プラトンは、自分を大いに愛していると公言する人を世間では大目に見ている、といっておりますが、しかし、そこからいろいろ困ったことも生じ、ことにそれでは自分自身を偏見なく正しく判断できなくなるというのははななだ重大だとも言っております。生まれついての自分の特性で満足することなく、すぐれたものを尊び追及する習慣を学習によって身につけないかぎり、「愛は愛の対象に対して盲目になる」というわけなのです。(「法律」731DE)
しかしこのおかげで、追従者に広い活躍の場所が与えられることになります。我々の自己愛が、彼らが我々にとりいるための格好の足掛かりになるからです。(p8-9)
追従者たちも乾いたもの、冷えて固くなったものには近づきません。名声や権力のあるところにとりついて自分を肥やします。ですが、事情が変わるとたちまちそこから姿をけしていまいます。(P.10)
既視感があると思うのは私だけではあるまい。
例えば、BBCなどでは今日は何の日であるとかなくなった個人の業績を振り返ることを定期的に行っている、朝のニュースにも今日はどういう日でどういうことがあった、と毎日放送しており、SNSでも作家、音楽家、詩人などの業績とともに紹介している。
問題は、友の素振りをして近づき、追従し、名声や権力のわけまえを得ることで自らの権力補強または私腹を肥やすことなのだ。ここまではまだ古今東西の小悪人であろう。しかし彼らは、良いことをしている、みなさんのためなのですという風に標榜しながら税を関連企業に投入し、その結果得たデータも回収する。こういうことが7年も続いてきたわけだが、なぜか今日の支持率は40パーセントを下ることがない。本邦は一応、民主主義国であるので、いかに宰相が判断を誤ろうとも過ちを繰り返そうとも、結局は国民一人一人に責任は帰されてしまう。被害者だったのです、というようなことは通用しない....。議員内閣制と王朝制度の二重構造は何なのか?と思う事もあるのだが(おそらくそれはリッチー・エドワーズやイギリスの知的階層も考えていたことであろう。こちらは実際のところ進歩しているのだろうか?)
本文に戻ろう。
「…むしろ友というのは貨幣の場合と同じで、いざ必要となった時偽物だと判明するのでは手遅れで、必要になる前に、本物か偽物かためされるべきでしょう。被害にあってはじめて気が付くのでなく、被害にあわぬよう、追従者なるものを知り、それを見破るべきでしょう。さもないと、どんな毒薬か知ったときには命を落として身を滅ぼしていたという連中と同じことをやることになります。(P.11)
いかがだろうか。
私にはこの七年、特に2015年以降、2017年10月、2018年3月、2019年7月を彷彿とさせるのだが。
さらに多くの人が警告してきたにもかかわらず、根拠なき増税、可処分所得減少すらを仮想敵と仮想の対立をしかけながら(TV)善良さと正常さ、持って生まれた善性によりごくありふれた人すらレイシズムや賛翼の一部を担っている状況が続いたのだ。
プルタルコスの言葉、正確には対話篇から引用したプラトンの言葉をひいたことばを引き写しておこう。
「実際プラトンが言ってますように、「正しくない人間が正しいと思われる、これが不正の極み」なのでして、我々が危険だ厄介だと警戒しなければならない追従というのも、追従とは引きがつかれぬ追従、追従する当人も追従だとは認めぬ追従、遊び戯れでなく真面目なふるまいの中での追従です。」(P.14)
追従者について、さらにプルタルコスは例をあげて詳細に書いているがここでは割愛する。
しかし言葉の問題が逆転してしまうという倫理的にも常識的にも問題となることがらを短く指摘しているので書き留めておく。
「トゥキュディデスも申しております。(3、82)内乱や戦争になると、「言葉の通常の意味を、当面の行為にあてはめるように変えてしまうことが正当化される。無思慮な大胆さが友のために我が身を顧みない勇気とされ、将来をおもんばかって行動する時期を待つのは臆病の美名とされ、思慮分別をはたらかせての自制はめめしきの口実で、万事にわたって理解しているのは万事につけて行動力が不足していることだとされた」へつらい、お世辞に関しても我々は目を開いて、ただの浪費にすぎないことが気前のよさなどと呼ばれていないか、臆病過ぎないのが危険を避ける配慮とされていないか。・・・・(P.35)
近頃では公共放送たるNHKすら国会中継を放送しない(したとしてもニュースで編集し趣旨を大幅に改竄している)が、時々でも官房長の定期会見であるとか国会中継をみたことがある人ならこうしたことが数年にわたって起きていることを知っているだろう。さらに、ニュースでも上記のような本来ならば、批判されるべき言葉の意味の変更を是としてしまっているのだ。敢えて改めて言うならばニュース、時事の放送自体が減っており、民放に至っては半分CMのようなプロモーションがニュースという名ばかりで1日の大半を占めている。あるいは共有すべきトピックを放送しないために他国の批判などをしている始末であった。
(2019年夏から秋頃)
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