3月の「哲学の誕生」合評会で、法とクリトン(対話篇)について論題があがった。
提出資料のPFDをJPG化したら掲載しようとも思うが、帰宅してからしばらく「クリトン」を読んでいていくつか気になったことがあったのでメモ。
従来、「ソクラテスの弁明」と「クリトン」は大抵文庫などではセットで出版されることが多く、弁明とクリトンは連続性があるのではないか、と思われている。(私もそう思っていた)
その後、納富先生のソフィスト、ソクラテス思潮の流れと区分に対する説明を聞いていて(ラックス-モストではソクラテスはソフィストの巻の3番目にいれられている)
さらに考えてみた次第。
ソクラテスが裁判後、刑死を受け入れるまでの、クリトンとの対話が対話篇クリトンの内容である。
(著者はプラトンであり、ソクラテスが直接語るのではない)
何度かよみ返してみると、著者プラトンは、どちらかといえばクリトン側の立場から裁判後のソクラテスに対していまいか。ソクラテスはアテナイ人である、よってアテナイの法廷での死刑を受け入れる。
しかしその罪状は極めて不当なものであったはずである。
(だからこそ弟子たち--アカデメイア派から小ソクラテス派にいたる7人の弟子たち、クセノフォンらも含む-はそれぞれにソクラテスを書き残した。(すべて残っているわけではない)
初期と後期の対話篇の違いももちろん考慮すべきである。
しかし、法に従い死刑を受け入れるということが果たして、のちにソフィストの定義になる全結合主義になってはいまいか。すなわち、(日本の原文では、どこか戦前日本の国体思想のような、国と人とが重なりあうような描写があるのだ・・・)もし、ソクラテスの判断に心酔したりなんのわだかまりもなかったら、プラトンはこの対話篇を書き残しただろうか? 善は時宜を得ることであり、後の分割法を考えてみれば、法を受け入れるということと、それに服従することだけが善なのだろうか。クリトンは国外脱出を進めている。プラトンは、なぜこのような裁判と告発を受け入れなくてはならないのかという葛藤から書いたのではないか。
しかし、自分の生命を永らえさせることよりも、真に偽らない在り方をもとめることがプラトン主義として真理探究の道としての哲学(フィロソフィア)なのだから、当然ながら否定もできないのである。
この結果的に二者択一にならざるをえなかった出来事において、何がもっとも適切だったのか、知識探究に加えて知を愛するフィロソフィアの成立ちはやはり不可欠である。
しかしながら、ソクラテスの言をプラトン思想に近づけすぎると、クリトンとの対話の意味が浮かび上がらない。
果たしてもっと他の方法があったのではないか、(プラトンは政治の実践のために国外へも赴く、そしてアカデメイアを創立する)・・・この中間的な部分の問答こそが考えられるべきなのかもしれない。
こんなことをずっと考えているのだが、たとえばキケローや共和政ローマ以降の哲学では、寧ろソクラテスが否定した時分の子どもの養育であるとか、日常をよく生きることであるとか、判決による「死の受容、去っていく」ことではなくむしろクリトン側の教訓が生かされているように感じるのである。
クリトンは短い対話篇だが、3月末から4月半ばすぎまで断続的に考えていたことをメモしておく次第です。

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