新ギリシア哲学史の講座に出席しました。講師は納富信留先生。前回のゼノン、メリッソスに続き今回はアナクサゴラスです。

ソクラテス以前と言われている自然学・自然哲学者たち(多くは断片集)の生涯、著作と理論に迫る講座で、今回はアナクサゴラス。ペリクレス時代のアテナイにも居住し、後にペリクレスの追放(陶片選挙)によって同じように追放になった...この辺りはディオゲネス・ラエルティオスやルチャーの著作でも触れられている。
アナクサゴラスは、パルメニデスの「有」「一」への応答として多元性を唱えた。そしてその秩序づけにはヌース「知性」を唱えていることで知られている。
シンプリキオス(新プラトン主義)が引用しており、その中で第1巻で述べている、という言及から彼の著作は2巻ないし3巻あったであろうと推測されている。本講座では断片集の翻訳を納富先生が行っておりレジュメにも掲載されている。

個人的な感慨では、有、一というパルメニデスの応答としての多の存在、ゼノンが提唱した可能無限の理論と比べるとアナクサゴラスは実無限を考えていたこと、カオス混沌を最初のもの(というと語弊があるかもしれない、始まりも終わりもないことが前提となっているのだから)として想定していることなどが特徴かもしれない。この存在論は後々アリストテレスにも影響を与えている。(だが納富先生いわく、アリストテレスはプラトンやアナクサゴラスのように自分が影響をうけたものをあえて褒めない傾向にあるので、一見するとアリストテレスはプラトン否定やアナクサゴラス否定をしているように見受けられてしまうようだ。例えば、ブルーノでも、原因、一者などはあきらかにフィレンツェのサン・スピリト聖堂やフィチーノの思想から出発しているのだが、「フィレンツェでは学ぶものはなかった」と言っている。だが、思想や哲学、理論を準備したものは明らかにそこであるように・・・こういうことはままあるものだ・・・と感じる。余談)

パルメニデスの原理への応答
B17 
「ギリシア人は、生成するとか消滅するとかを、正しく考えていない。いかなるものも生成することも、消滅することもなく、あるものどもから混合し、分離する。そのように、生成するとは混合すること、消滅するとは分離することと呼べば正しいだろう」
(レジュメから引用)


重要なことは、納富先生が指摘されていたが、我々は存在論を考える際に無意識に二つの理論を想定してしまう。一つは原子論。もう一つはアリストテレス型の形相/質量というものである。
これから一度離れてみないと、特に原子論との区別がつかないだろうということだったし、私もそれを前提とすると違う原理を提唱していることに気が付くことができた。

彼は一体何をいっているのか、そこがいまいちわかりづらいために、日本でも世界でもあまり研究はされていないらしいのだが、納富先生がケンブリッジにいたときの既知の研究者や、先ごろは現代哲学的な立場からの分析もされているようでその理論も紹介された。Gunk理論と呼ばれるもので、イタリアの女性研究者でオクスフォードで研究しているマルモドーロ氏が提示する原則も説明があった。(この12月に来日して本郷で議論されたそうである)


原則をみているとなるほど、プラトンが描くところのソクラテスはおそらく、この理論だけでは自然の法則や秩序は作り出せたり成立つとしても、そこに人知が働くときにはそれだけではあるまいと考えたのだろう。と私は思った。自然はそれでよい。だがそこに人間というものが立ち働くときには・・・知性がもの自体と考えるのにはまだ困難があるのだが、これも神と同様に、それを認識できるものがあって知性は対象化というか、有、として立ち現れる(認識される)のかもしれない。(パレイゾンやクィンツォがいうところの立場の区別のような)

あるいは、唯物論として、何がそれらを分離したり、構成するための力となっているのかということが後の課題になったのだろう。(アリストテレスがそれらを言うことになる)
秩序づけとしての「知性」と「種子」をアナクサゴラスは指摘した。ある意味でこれは現代の遺伝子だけがあるのだ、という立場とも似ているかもしれない・・・(おわかりのように、こうなると個々の変容や教育、精神というような作用や人間性というものが欠落してしまうということにも隣接している。あるいは未知のものに対する己と人の限界を想定しないために・・・)




講義でも質問させていただいたのだが、講義後も受講生で質問できる機会があり、多いにパルメニデス以降と今年扱われた新ギリシア哲学史の内容で話し合えた。ネオプラトニズムやルネサンスの話題(ペトラルカ以降)含む。

プラトンやアリストテレスのフィロソフィアが生まれる前にはソクラテス以前の哲学者たちがおり、彼らの思想や理論がどのように考察されまた吟味されたのか。我々としては断片からしかおうことができないのだが、この分野をプラトン・アリストテレスと新プラトン主義以降、そしてキケローやルクレティウスなどのラテン語の文献からさらに時代を追っていくと、どううけつがれたかわかる。そして失われたものもはっきりしてくる。それは中世だけではなくて、たとえば反デカルト主義であったり、エルンスト・マッハの時代でも起こりうる(もっといえば今日でも書籍の絶版と図書館の荒廃や司書職の軽視からも危機が生じているだろう、電子書籍のみの書物媒体であるとかもそうかもしれない。また統廃合される学部なども)

パルメニデスの有をめぐる応答は面白い。次回エンペドクレスの際には関連で理解が深まるであろうし、18世紀ごろのギリシア受容をしたドイツ文学の過剰すぎる悲劇とロマン主義的な受容はギリシア哲学を介さなければどこまで正当に理解されていたか、また誤解されているかもわかるし(エンペドクレスを題材にした「銀の靴」という作品がある。グリルパルツァーのメディア受容よりもさらにロマン主義的・妄信的な悲劇性である・・・)、そうした流れを少なくともそれが哲学で哲学的なのだ、と真に受けてしまいがちな近代と現在の日本のメンタリティにもおそらく関係するだろうと思っている。

とにかく参加できて良かったし、皆さんと対話的に議論できたり疑問を交換したりできて良かった。

新・ギリシア哲学史は現在のところ、筑摩書房の80周年記念の年に刊行予定とのことです。


※ もう少し加筆修正します ※


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プラトン 理想国の現在
納富 信留
慶應義塾大学出版会
2012-07-19



精神史における言語の創造力と多様性
納富 信留
慶應義塾大学言語文化研究所
2008-04-01











ソクラテス以前以後 (岩波文庫)
F.M.コーンフォード
岩波書店
1995-12-18