ポリュビオスと<帝国>の統治



混合政体であり国家に変わり企業が支配する新たな帝国について(現在進行中であるし多くの例をニュースや生活でも確認することができるだろう)、ローマ帝国を分析したポリュビオスの論考を再考し、それらが時代とともに変容し無秩序になることに警鐘を鳴らしている。まず前提となる古代ローマを確認してみよう。

「現代の経験的状況は、ポリュビオスがローマのために構築し、ヨーロッパの伝統が私たちに伝えている至高の統治形態としての帝国権力の理論的記述にそっくりなのだ。ポリュビオスにとって、ローマ帝国は政治的発展の頂点を表していた。なぜならそれは、皇帝、元老院、そして民衆的な民会にそれぞれ体現される。君主政、貴族政、民主政という三つの「良き」権力形態を統合するものだったのである。帝国は、これらの良き形態が腐敗の悪循環に陥ることを、つまり君主政が専制政治となり、貴族政が寡頭政治となり、民主政が衆愚政治あるいは無政府状態となることを防ぐことだったのである」

今日の状況を確認する必要があるのではないか。立憲君主制の名残りをもつわが国(憲法と民法や刑法など明治憲法下にあった法が併存している矛盾 これを民法を憲法に照らし合わせるのではなく、憲法を変える方針をだしているのが現在目指されている憲法改正(実際には改正ではない 少なくとも正しくはない)案であろう。ニュース、情報が制限されており、大半の人がニュースや時事を概観できるメディアに接しておらず、テレビ(特に地上波)を見る人にとっては今はほとんど何がおきているかを知るツールがない。インターネットで情報が増えたように思われるかもしれないが、スマートフォンのニュースは複数の記事や内容を一覧できる状態ではない。脊髄反射的に正確な情報を得るよりも、デマゴークや嘘、虚偽がまかりとおって拡散されてしまう。(CNNではある真実について誇張が行われた場合には虚偽になることを指摘している。加えてしばしばトランプ政権はメディアは敵であるという言説もまことしやかに唱えられており、今日のわが国でも度々メディアの偏向報道があると明言してきているが、民主政のバランスをとるための報道、世論にはメディアに寄らなくては成立は難しい。アメリカでは報道とメディアは機能している。翻ってわが国の状況はどうだろうか。これらは自分で見たSNSニュースは自分がいいとおもったから正しい、真実であるような錯覚とともに拡散されてしまう。ティモシー・スナイダーが「暴政」で警告したように、ソース記事を読まずに拡散することが増えている。(ティモシー・スナイダーは長文の記事や書籍媒体を読むことをすすめている)
おそらくメディア比較、スポンサーとメディア、いかに情報が発信されるかを気にしたことがない場合には、今までそれなりに正しいことを伝えてきたメディアが変容していることに気づかないであろうし、変化に気が付かなければ今までとまったく異なる方針になっていても変わらないだろうと思われている。
最悪の形を考えてみよう、上記のように、君主政が専制政治となり、貴族政が寡頭政治になり、民主政が衆愚政治あるいは無政府状態になる、こうした危険について考えざるをえない。
情報がコントロールされている今日の日本国内メディアだけではほとんど国内のこともわからなくなっている。殆ど衆愚政治に近くなっており、もともと被選挙権の条件は寡頭政治になりやすい。明治憲法の影響下にある法がいきている今日で改憲すればほとんど専制・独裁に近くなるだろう。(今は独裁に近くなっており、他方自由の意味で娯楽、社会的無関心を助長するために衆愚政治に近くなっているがそれは無関心の間に近代的な政治経済の秩序バランスを奪うために行われている。ティモシー・スナイダーは、小さな画面に向かって一人一人がうっぷん晴らしをすることを力を持つ側は望んでいると指摘している。SNSもソーシャルと名がついているものの実際にはソーシャルな部分はないソシャゲであるとか。世代ごとにそれらがある。)



「民主政はマルティチュードの代表制の枠組みにしたがって組織する。それによって<民衆>のほうは政体の支配のもとにおさまり、政体のほうは<民衆>の要求に応じることを余儀なくされるということが可能になるのである。民主制は規律と再分配とを保証するものなのだ。いま私たちが直面している<帝国>もまた、必要な変更を加えれば、これら三つの権力形態の機能的な均衡によって構成されている。(中略)
混合政体による<帝国>はポリュビオスが考案したものの裏返しになる危険がある。

(本文ではイタリア・ルネサンスのさかのぼる解釈学が、イギリス革命前後、合衆国建国の思想と合衆国憲法の起草において高度に応用されると触れている。しかしこの分析は古典的な”三部構成”(本文では傍点)モデルへの変容について述べられている。

冒頭で引用した部分に呼応すると思われる、結論部分をみてみよう。

「私たちが経験している<帝国>の(形成過程にある)政体とは、伝統的に主張されるところの「良き」統治形態ではなく、むしろ本当は「悪しき」統治諸形態の発展であり、共存なのである、と論じることさえできるかもしれない。
・・・君主政体は権力の統合の正統性や超越的条件を基礎づけるどころか、グローバルな警察力として、つまり専制の形態として現れている。国家横断的な貴族政は起業家的な美徳よりも金融的投機を好んでいるかのようであり、そのために寄生的な寡頭政治として現れている。(P.403-404)

(<帝国> The Empire P.401-404 より抜粋)

イタリア・ルネサンスは美術史、思想史、社会史含む領域から、政治学は法学部法・政治から、メディアについては社会学から、そして哲学、近代現代ドイツ、フランス文学史、イタリア文学を学んだ立場から書き留めておく。



http://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674060289&content=bios

•POLITICAL SCIENCE: Globalization
•POLITICAL SCIENCE: History & Theory
•BUSINESS & ECONOMICS: Economic History
•SOCIAL SCIENCE: General
•PHILOSOPHY: Political


http://www.ibunsha.co.jp/0224.html

〈帝国〉という言葉は捉えどころが無いのですが、それでも関心を呼び起こされるのは、現代という時代が捉えどころが無いからです。この現代性を壮大なスケールとヴィジョンで解き明かしてくれるのが本書です。例えば、今日テロという犯罪を戦争に仕立てて、国際社会を戦争状態におとしいれるような社会が、いつからどのように始まったのか?また、市場原理という原理主義が、われわれの日常生活を巻き込んだ生政治(剥き出しの生)へと転換したのは、どのようにしてか?これらの大問題を冷静に分析しつつ、現状分析に甘んじていられない、将来の可能性への熱いまなざしをマルチチュード(群衆、多数性)に向けています。