”Empire”(帝国)は2000年に出版されたネグリとハートの共著。
従来の概念なら帝国とは国土の拡大をもとに想定されるが、現代、今日ではそうではない。そして従来の<保守>を装って支持を取り付けるがその実は従来の価値観にはよってはいない。このギミックを支持者たちは理解(understand)しているのか・・・という気持ちが強いのだが(解っていて支持するならともかく、思い違いのもとに成り立つか誘導されていないかという気持ちになるのでメモ)
「混合政体」 冒頭にはビル・ゲイツの言葉が引用されている
「生産パラライムのネットワーク・モデルへの転換は、国民国家の伝統的境界を越えたその向こう側で、多国籍企業の力の増大を促進してきた。この関係の新奇さを理解するためには、資本家たちと国家との長期にわたる権力闘争という観点からそれを眺めてみる必要がある。この対立の歴史は誤解されやすいものである。重要なことは、資本家たちと国家とのあいだにつねに敵対関係があるとしても、この関係がじっさいに衝突を孕むようになるのは資本家たちが個別的に把握されたときだけなのだということであり、その点を理解しておかねばならない。(略)
本文では国家と資本について時代区分を整理する。トラスト、カルテルなどを踏まえて詳しくは本文を参照。(18世紀から)P.390-393
「今日では、この国家と資本の関係における第三の局面が十全に発達を遂げ、巨大多国籍企業が国民国家の支配権や権威を事実上凌駕するまでになっている。こうして、、この数世紀にわたる弁証法は終わりを告げたようにもみえる。すなわち、”国家は敗北し、いまや企業が地球を支配しているのだ!”(” ”内は本文に傍点)というふうに。・・・・」(「帝国」P.392-93)
この本が書かれ(今でも重要な参照文献であるが)たときよりもそれは目に見えるようになった。すなわちより具現的な政策アドバイス?によってかそれが実際の法案になりかつて国家すなわち税で整備されたものが切り売りされるようになったり、他国の第二フロンティアに基盤を移す多国籍企業があるだろうということだ。
間違えたくないのだが、その国に住む人たちが結果的に良い製品を買えるとかよりよい品質のものを選択肢にいれられるかどうかということにはあまり異論はない。(問題なのは、国土国家主義のような共同体右派の支持を得たいのかかつての保守や愛国主義を担ぐところだ。)消費の選択というのは消費者の選択であって、選択肢が増えたらそこに質の優劣の競争原理が生まれる。だがその選択肢を排除して国産!と選択を絞っているのが現状で、他方でこの新・帝国式を受け入れるというのが現代(いま)だと思える。このことを端的に指摘している記事があればそれを参照したいが、いまのところみたことがなく、このメモも複数のメディアと今までの自分の読書歴や学んだ分野を参照している。例、もしトランプ政権が旧共和党の支持者をバックボーンとするならば、G7におけるロシアや北朝鮮優位、カナダ軽視などをとらないだろうということ。(他方、難しいのは原則に則ればアメリカと北朝鮮の合意のようなものは生み出せていないかもしれない・・・他方、中国に対する対応のぶれは今後もまだ起こるだろうし、政体の限界が壁になるかもしれない)
日本だけに限定すれば、十分この多国籍企業の巨人の支配(というと大げさかもしれないが)の元にあるように思う。しかし恩恵は自由経済時代よりは少ない。選択肢が多くその中から消費者側が選択できる時代からは後退している。もはや残余のものがなく自ら駆逐してきたために(国内大企業主義により)選ばざるを得ない、という段階まで衰退しているのかもしれない。・・・
何が起きているのか、ということをかぎ取らなくてはならない。
特にこの時点で何がおきているのかを察知できていない、あるいは話題にならないという風潮には危惧を抱く次第。
危惧するのは、現在のところ自らの生活にはただちには関係がないという人ほどこうした問題をしっておかねばならない。問題と思われるときには遅すぎるのであって、まして、人のすることは経済、金銭のながれに逆らうことはないそれが自然なことだ、と容易に思ってしまうことは”神の見えざる手”にゆだねるという楽観論と、近代を装った中世神学的な楽観主義だと思えてしまうのだ。・・・
コメント