6月23日 メモ
<ラインの黄金>
・稽古場を模したような舞台(セット)、オーケストラピットには階段が作られ、地底世界、ニーベルンゲン世界を表すのか。エルダ・大地と知の神もそこから顕れる。運命の3女神が縄(糸)と紡ぐ。舞台には上に通路が作られる。神々はたびたびそこから人間たちのようすを傍観する。
・神々の踊り、ひとりづつソロがある。
ヴォータン、フリッカ、ドンナー、フロー、フライア。
・アルベリヒの演技・表情、恨みとのろい表情に注目。
ラインの乙女たちとの楽劇(オペラ)の冒頭の場をよく表している
<ワルキューレ>
・サイダコーワのブリュンヒルデは気高く、繊細、優美であってフォルムにのゆがみがない。勇敢さが求められるワルキューレの時よりも、神聖を奪われた後が素晴らしい。
・フリッカ・ヴィシニョーワ、ヴォータンとの対峙の場。
入場してきたところから、勝ちを手にした者として振る舞うような迫力。すさまじい。
・フンディング
上手い。イタリアン・マフィアのようなイメージ。振る舞いもそれに近い。
ソロも見ごたえあり。
ジークムントとジークリンデの誕生の場面。裸で共に生まれ、ジークリンデはそのままあやしげな男たちに連れ去られ、フンディングの妻にされる。
ジークムントはヴォータンと狼と試練の中にいる。楽劇版ではのちに語られる部分が挿入される。シンプルだがよく表現されている。
・ヴォータンたちが神の衣装をつけ佇む。(この衣装になると踊らないが、神々しい姿で見ごたえがある、だがおそらくそれは神々の衰えを表している。レオタードを身につけ超人的な存在を表すポアントをはいて踊るのは神だけである。グリムヒルデのアンバランスもそれに倣っている)
ブリュンヒルデが神性を奪われる箇所はバレエならでは演出でわかりやすくインパクトを感じる。このような、ベジャール版ならではで「目に見える変化」がインパクトがある箇所が多々ある。オペラでは登場しない箇所の補足がされている。
ローゲ「こんな愚かな神々と滅びるのは御免だ!いかに神々しい神でも」
ジークフリート
・ミーメ、ジークフリート(青年)、ローゲの3人が踊る。3幕はとにかく目が離せないもっとも、形而上学的な解釈にあふれ、そして楽しい。
ジークフリート 圧巻、少年時代と青年時代、ともにすばらしい。
軽やかで伸びやか、まだ自分の運命をしらぬもの。マリアン・ワルターの少年ジークフリートはハマり役。
青年時代ジークフリートとサイダコーワとの踊りは本当に素晴らしい。ジークフリートとブリュンヒルデの感激を表していた。
サイダコーワ
ジークフリートとの踊り、素晴らしい。彼らの運命的な出会いと歓喜について。
・ローゲ 3幕のローゲはそれまでのどの幕とも違う。カオスの中の静けさの存在感。恐怖すら漂う。いるだけで、常に外部としての存在感。
・エルダ= ヴォータンとの会話、、この踊りがもっとも興味深かった。
神々の黄昏
・グリムヒルデ 片足ハイヒール、片足がポアント。バランスを失い、脚をひきずりながら踊る。アルベリヒとの踊り。不安定なあやしげな美。得体の知れぬもの、美しいが大きな欠落を表しているのか。
・グートルーネ(ヴィアラ・ナチェーワ) 踊りはワルツ?だけだが、存在感は抜群。ショーガールのよう、存在としてもそうであろう。この存在感は、バレエ団のダンサーが演じるならでは。
・ローゲとブリュンヒルデの踊り。マラーホフとサイダコーワ、共に大変演技力と内面性の表現がすばらしく、ローゲの踊りではもっとも引き込まれた。とにかく素晴らしかった。ベジャール版では、おそらく、ブリュンヒルデとローゲだけが、ヴォータンがこの物語の責任ある者であり、物語の始まりと終焉を共有しているのである・・・。
(原典では、ブリュンヒルデのみがこの絶望を知っている)
・ジークフリート(青年)とジークフリート(少年)の踊り。双方の別れを描く、冒頭とくに注目したい。マリアン・ワルターも素晴らしい。このような、男性の成長と少年、を描くところはベジャールならでは?
・ハーゲンとアルベリヒの踊り。
アルベリヒはとにかく目で表現する、恨みやのろい、その深さを全身で表している。
素晴らしいダンサー。
・ローゲの笑い、ーー邪悪そのもの。運命を笑う。終末さえも、その顔はすさまじい。マラーホフのローゲを観られた人は幸せだろう。これは彼の中にあるあらゆる才能を超えた才能がなせる演技である。計算されたものではない。
世界の終末
壁が割れ、全員がそこに力なく座り込む。うなだれ、もはや動くことはない。
★3幕以降とくにすばらしい。
ジークフリート、アルベリヒ、ブリュンヒルデ、ローゲ、ミーメ、ハーゲンの踊りはどれも素晴らしい。目が離せない。
★気になった場所
ジークムントとジークリンデの踊りは少し弱い。
このシーンはジークリンデが、歓喜と絶望の両方を感じている重要な箇所が不十分。
ワルキューレは音を体現できてはいない。もっと迫力があるほうが好い。音楽を逃がしてしまっている。
おそらく、ヴィシニョーワだと勇ましさのほうが全面にでるであろう。
ブリュンヒルデがジークリンデにジークムント(勝利を守者)との子に「ジークフリート(勝利を保つもの)と名授けるところとノートゥングを授けるところは字幕を入れてもうすこしクローズアップしてほしかった。ーーだが思い返してみれば、その感動はおそらく楽劇で知っている事なのでベジャールはさらりと描く。事件に関してはさらりと描き、その人物の内面性をダンスにぶつけるという手法がとられているのだろう。だから、観るものは、踊りを理解するためには、すでに「指環」という物語が持つ、壮大な力を体感しておくほうがよい。
まず一言感想。
このバレエは、ニーベルングの指輪のストーリーについて予習が必要というよりも、上級な「復習」である。登場人物、とくに、アルベリヒの恨みと呪い、ジークムントとジークリンデとブリュンヒルデの希望であったジークフリート、その死。その絶望を楽劇版によって体験していることが「前提」として描かれている。ダンサーたちは、言語の意味の深さを顔の深い演技と、眼、身体全体で表現する。深淵で格調高い重要なシーンを体験していると更に感動する。私たちはまた新たにあの歓喜と絶望を再び共有できるから。そしてもう一つの終末を、ブリュンヒルデやローゲと共に観ることになる。
70年代的な演劇感覚で構成されている。
私は、天井桟敷作品や万有引力を10代の頃に多くみているので、このような多重性・同時進行性の強い舞台構成には慣れているので、非常に楽しめた。
舞台、舞台の上部、そしてオーケストラピットに作られた地底としての奈落で物語は進行し、また傍観している。(おそらく3階・4階の中央がいちばん見やすいであろう)
24日は26日の予習のために5階から観にいったのだが、ベジャールの振り付けは遠くからみても、ダンサーの動きや身体の動きがわかるように振り付けられていることに驚く。ダンサーたちは渾身の演技で、目やすべての表情で表現しているので、表情にも注目。ワーグナーの聖地であるドイツで演じられる指環は、半端な演技ではない。
その辺りにも注目。
因みに私が今回の「指環」を観るにあたって、予習用にみた楽劇版は1980年「バイロイト音楽祭」である。「ワルキューレ」は特に、物語の要であり、すべての役者は適役である。ぜひバレエの理解と感動を深めるためには機会があれば観て欲しい。
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