納富先生の『哲学者の誕生ーソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書 2005年)がちくま学芸文庫から発売される旨は3月の発売直前に書いたとおりである。2017年4月10日発行。この文庫版では、新版にあたり2008年ナポリで開かれた第二回国際学会「ソクラティカ」で納富先生が発表された研究書「ソクラティカ2008」(「ソクラテス対ソフィスト」はプラトンの創作か」が補論として納められている。(納富先生のあとがきによれば、『ソクラティカ2005』イタリア・リヴィオ・ロセッティ教授からにちくま新書の内容を紹介するように求められて英語で要約論文を寄稿したとのこと。よってちくま新書版とこのちくま学術文庫の内容は世界で紹介されている)


納富先生の著作は多く出版されており、NHKでの100分de名著にも出演されていたのでご存じの方は多いと思う。以前から、私個人が大変参考になり、プラトン/ソクラテス受容について考える際に、ちくま新書「哲学者の誕生」という著作の存在は大きく、哲学初学者や高校生、哲学を専門としない分野の学生にも薦めてきた本だった。しばらく絶版となっていたので、4月に新版が発行されるということが何よりもうれしかったし、多くの人に読んでもらいたい一冊として挙げている。(このことは3月初旬に先生にお会いした折にも直接お伝えし、補遺や改定される個所について、またタイトルが一部変更になることなどもお話ししてくれた。)


あとがき部分には今日の(2005年から年月を経て現在の世界と日本の研究の状況などもまとめられているのでぜひお読み頂きたいのだが、哲学史・思想史としても「対話篇の伝統」を扱った三章から少々引用してみたい。

「『パイドン』の語りの意味を見定めるためには、プラトンが遺した「対話篇」という著作形式を解明する必要がある。私たち現代の読者は、「ソクラテスの死」の感動的な場面や、ソクラテスがアリストフェスらと愉快な演説をくり広げる『饗宴』など、文学作品としても第一級の美しいギリシア語散文に感嘆し、「対話篇」というと、ほとんどプラトンの専売特許のように思いがちである。(略)
 プラトンが印象的に活用した「対話篇」の意義を考えるために、まず、後世の哲学者たちがそれを受け継いでいった様を概観しよう。」


以下は詳細を個人的にまとめたもの。
ここから挙げられるのは前1世紀のローマ、キケロー、アウグスティヌス、6世紀はじめにボエティウス(『哲学の慰め』が有名である)、9世紀ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ(アイルランドのヨハネス・スコトゥス)、11世紀アンセルムス、ルネサンスではニコラス・クザーヌス、16世紀エラスムス、マキャベリ、ジョルダーノ・ブルーノ(カンポ・フィオーリで火刑となり像がある。ブルーノはフィレンツェのサン・スピリト教会で学問を初期に学んだが彼の思想には自ら否定しながらもこの時代の影響が間違いなく礎となっている:余談)、1633年にはガリレオ・ガリレイが、政治学ではトンマーゾ・カンパネッラ「太陽の塔」。17世紀から18世紀になっても対話篇形式の著作は書かれており、ライプニッツがロックと対決する『人間知性新論』はロックの立場の人物フィラレートとテオフィル(ライプニッツ)の対話で進められる。さらにマールブランシュ、バークリ、ヒューム。ディドロ、ルソー、ヘルダー、シェリングと続くが19世紀以降、現代に近づくと対話篇形式の作品は稀となる。(P.95-101)

いくつかは読んでいるものの、当然ながら私はすべてを読んでいるわけではなく、引用ページを見てもこれだけの情報がこの数ページに収められている。読書は読むたびに、他の書物、書物を通じた人物、あるいはロゴスとの出会いをあたえてくれるが、この一節の一部分だけでもぜひ、実際にお読みいただきたい。

対話篇作品の収束は他方では哲学、本来のフィロソフィアから論文や講義録といった形の「哲学」への変容に重なるようにも思う。私見だが、1500年代に一度アリストテレスが綱要としてラテン語とともに学ばれた時代が日本にもわずかながらあったが、ほとんど近代になるまで、明治まで哲学は失われていた。論理や対話、まさに「宗教から哲学へ」の分岐点まで。しかしながらこの境界が昨近また明確に差異をもたずともよいような状況になってはいまいか。

私個人としては、納富先生による日本におけるソクラテス受容についてまとめられている第6章「無知の知を退けて」だけでもぜひ多くの方に読んでもらいたいと思っている。
私が本書を読んでから、またプラトンとプラトン主義、受容について考えはじめてから年数が経過したが、いまだにソクラテスープラトン「無知の知」という認識が通説であり、ギリシア哲学といえばソクラテス「無知の知」なのである...。残念という他ない。

またこの無知の知の受容とソクラテス偉人像としての受容は、わが国における哲学とひとびとの関わりをとても不幸なものにしていると思っている。
(私は初期で用いられた希賢学 フィロソフィア 愛知 がふさわしいと思っている。これもちくま新書版から本書新版でも書かれているとおりだ。

無知の知という、知でないものを「なんとなくわかったように、また知識も思考も理性も言葉もあいまいにしてしまう」この受容こそが、哲学やしいては人文科学の学知の価値を貶めてしまっているようにすら思えるのだ。
・・・・

ディアクレテイケー、自己認識。
プラトンの対話篇は手軽に文庫でも読むことができる。
しかしながらプラトンのかいたものは論文や演説ではない。
ある一文を抜き出してプラトンの言葉であるとすることは、哲学と相反するといってもいうような権威主義、思考停止そのものに利用されることも可能なのだ。
(かつて納富先生が映画はダイジェストでみても仕方がない。全体をみるから意味がある、テキストを読むべき、とたしか慶應塾生新聞のインタビューでも答えていたと記憶している)

4月の発売から少しずつまた繰り返して読んでいる。その覚書として。






慶應義塾大学出版会
2015-10-29












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