ジャンバッティスタ・ヴィーコの講演を書籍化したものの翻訳版。
第3節より
「われわれは今日学習をクリティカから始める。その第一真理をあらゆる虚偽だけではなく、虚偽の嫌疑からも浄化するために、あらゆる二次的真理とかあらゆる真らしいものをも、虚偽と同様に、知性から追放することを命ずるクリティカからである。
だが、こうすることには不都合がともなう。というのは、青年たちにあっては、長じてからの実生活において奇妙で異常な結果にならないように、できるだけ早く共通感覚(常識)が育成されるべきであるからである。ところで知識が真理から、誤謬が虚偽から生まれるように、共通感覚は真らしいものから生まれるのである。確かに、真らしいものは、あたかも虚偽の中間物のようなものなのである。(中略)したがって、青年たちには共通感覚が最大限教育されるべきであるから、われわれのクリティカによってそれが彼らにおいて窒息させられないように配慮されるべきなのである。
そのうえ、共通感覚は、あらゆる賢慮の基準であるように、雄弁の基準であもある。(略)
・・・確かに、老人が理性において有能であるように、青年は想像力においてすぐれているから、つねに未来の才能のきわめてすぐれた標識と見なされてきたその想像力は、もちろん少年たちから断じて遮断されてはならないのである。そして記憶力は、想像力とたとえ同じでなくとも確実にほとんど同じであり、他に何ら知性の能力の点で秀でていない少年においては熱心に教育される必要がある。
想像力、記憶力、あるいは両者が関係する諸学芸、たとえば、絵画術、詩作術、弁論術、法学のようなものへの才能(イングニウム)は何ら虚弱にされるべきではないし、またすべての学芸の共通の道具であるクリティカがそのいずれにとっても障害であってはならない。」
(ヴィーコ 「学問の方法」 P26-28)
中略しながら引用記述した。ヴィーコは1709年にイタリア・ナポリで「われらの時代の学問方法について」を刊行する。これはデカルト的な方法論について最初の批判的書物といわれている。
最初に私見を述べるならば、真理探究おける第一目的のためにあらゆる共通感覚が退けられるならば、何かしかの限界が訪れるのであって、近代ヨーロッパ的な学問方法の危機、限界はこれにある程度由来する。延長概念に囚われた技術追及などがそうであろう。ただし、ヴィーコのいう共通感覚はいわゆるドクサ(億見)とは異なるし、俗な意味での一般常識ではない。正しいたとえかどうかわからないが、寧ろエンドクサに類するもの、また諸芸を繋ぐものとしての「共通感覚」ではないだろうか。
後半の引用では、逆に考えてみよう。
老人が目指すべきは理性であり、これらが想像力を抑え込むことは避けなくてはならない。想像力とは、ある前提(知識)をもとに、考えられるもの、想起されるもの。これらが無い場合において第二義的に記憶力を重視する。
教育において何が重視されるべきか、学問領域において何が「新しい」ことなのか、探究すべき事柄、あえて退ける必要があるものは何か。こうした事柄を考える際に、ヴィーコの演説は省みる意味を持つと思う。
Giambattista Vico
University of Michigan Library
1858-01-01
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