講座に行く前にファイルを見つけ、読み返しておく位のことをすればよかったのだが、かつて自分が書いた20世紀フランス文学の提出ファイルの草稿が出てきたので、一部掲載してみる。
(全文で約6000字:そのうちの一部である。おそらく2008年に書いたもの。

「『眼球譚』の後序にはバタイユの偽名であるW.Cの名で次のような記述がある。「1915年11月6日、ドイツ戦線から四、五キロの、戦災都市で、父は置き去りにされて死んだ。八月十四日、ドイツ軍進攻の際に、母と私は彼を置き去りにしたのだ。(中略)父は無神論者だったので、僧侶を寄せ付けずに死んだ。(中略)私も無神論者だった。けれども十四年の八月に僧侶のもとを訪ねた。そして二十年までは、毎週のように告解に出向いた!二十年には再転して、自分の運命以外なにものを信じることをやめた。」(『マダム・エトワルダ』眼球譚 後序p.198-199)

「現在、私は自分が取り返しのつかぬ<盲人>であることを、N..での父のように、この地上に<置き去りにされた>人間であることを知っている。」


バタイユの大戦時の個人的な体験は、信仰では解決できない自己の責任と認識について明確に述べられている。頼るべき絶対を持たない人間であるの1人であるバタイユはキリスト教神学と無神論、相反するものの間に自分自身と人間を位置づけるのである。

眼球譚の一部で描写される、セヴィリアの教会で生贄のように扱われる司祭であるドン・アミナドもそうである。また眼球譚での闘牛場ではバタイユが『ドキュマン』時代に繰り返し主題とする「恐怖と陶酔」が描写されるのだが、それは客観的な描写に徹している。


『ラスコーの壁画』でバタイユはこう述べている「ラスコー洞窟は、完成された人類というものの始源に位置することになる。(中略)昼は夜のある一点から生まれるのだし、ラスコーを介して私たちまで光を届かせるその光源は、人間という種のあけぼのなのである。(中略)「ラスコー人」は、精神と精神の交感が始まるあの芸術の世界を無から創りだしたのである。」(『ラスコーの壁画』P.18)

バタイユがここで問題にしようとしてるのは、人間の始源であり人間の根源とは何かという存在論である。始源を問う事は、20世紀に興った知的探求の主題だった。例えば、サルトルの文学と思想に影響を与えたフッサールは、考古学が唯一、始源を扱う学問だという時代の風潮に対して、現象学の立場から人間の思考や理性や認識について問い直した。バタイユもまたここで、人間の始源と本質について改めて問い直しているのである。『ラスコーの壁画』では、これら二万年前の人間と動物の間にあった存在に対しての驚きと重要性を「ラスコーの奇蹟」と呼び、同時に、「ギリシアもまた、たしかに私たちに奇蹟という実感を恵んではくれる。(『ラスコーの壁画』P.31」)と西欧の文明の起源とされているギリシア文明に触れ、こちらも「ギリシアの奇蹟」と呼んでラスコーの壁画とともに、西欧の知の始源として説明をし、その価値を同位に位置づけていることがわかる。....」

全文は異なる機会に異なる媒体に掲載できるかもしれない。

なおその時の参考文献の一部は:

G.バタイユ 「C神父」

G.バタイユ  「有罪者」

G.バタイユ「マダムエトワルダ・眼球譚」」

G.バタイユ ドキュマン

G.バタイユ ラスコーの壁画

酒井健 『バタイユ入門』


これに至高性が加わる。

今回酒井先生の講演を聞き、新たな発見とアクチュアルな我々と世界の問題が語られ、それを聞くことができたことは私にとって、「有罪者」を高校1年か2年の時に書店注文で購入し読んだ....のでとても意味の大きなものだった。
しばし読み直す時間、2008年よりも自分としても多少いますこし明確にできることもあると思う。
いや少なくとも私の問題として、2008年の段階の粗削りな読みに今少し付言できねばならない。










シンポジウムに両日三田キャンパス 南校舎ホールとメディアセンターに用事もあり行きました。

まずは写真のみ。
23日は今日のシンポジウム開催を教えてくれた卒業生かつ仏文卒のかたとも会場てお会いし、またフリー編集者のYさんともお会いできた。
本は気になるものが2冊あったが一冊購入。何故かといえば、バタイユ、ブランショの自分の本を3冊くらいずつ持参しつつ参照していたので、持ち帰るのが一冊が限度、土曜は雨でもあったため。

タイトル含め、本文は追加します。