
このタイトルの記事を観る方には、短く前置きするが3つ目なのでこの本を扱った番号が若い方から戻って参照するか、読みながら一部対話篇であるこのエッセイをさらに引用する方法とスタンスとに慣れてほしい。僭越だが先に記す。
第25章 犯罪
・・・・
「私たちは暴力に身をさらして生きているんだ、とベッラ・ヴィスタは言った。19世紀の理想、つまり、信仰、祖国愛、家族の感情をどぶに捨てておきながら、埋め合わせにほかの理想は持とうとはしなくなっている。実をいうと、今日日イタリアで今なお流布している唯一の理想主義者は、根っからの共産主義者とサッカー・ファンだけなんだ!(略)
私にいわせれば、もちろん人間は理想なくして生存はできない。いつも何等かの理想が人々を愛情とか自由とかへ引き寄せている(略)逆に、理想への動機づけがないと、人間は憎悪、権力シンドロームに陥り、代替の理想として(略)を選ぶことを強いられるのだ。(カッコ内は薬物でありもう一つは有名な高級車だ)
中略・・・・
「それは結構なことで、プロフェッソー。サヴェーリオが言った。・・・でも、そうなったら、生涯共産党員の子供一緒に暮らすことになりますぜ」
「どうだかね、生涯ではないよ。こんな諺がある。<20歳で共産党員でないものは心がなく、四十歳でまだ共産党員であるものは顔がない>ってね。・・・・・(P212)
この諺は云い得て妙である。私は、若いときにはたとえ自分が苦労していなくても周囲の困難や不正不満を目にすれば、それが不合理ならば、世の中に対して、共産という選択肢をすこしばかり考えるだろう、10代かそのくらいであれば...。
今日ではロールズとそれを巡る話題を考え、共産党でなくとも、拝金主義以外の考えかたをいくつか知っているからそう考える。しかし、10代のときにそういった疑問をもたぬなら、守銭奴か社会性とか他の理由がないかぎり多少はこの世界の前提や、不合理について考えるものだ。
今日では、現政権に同意しかねる人々の意見がほとんど、よくわかっていないままに共産党へ向いている(それこそなんとなくである。たぶん彼らは何もわかっていない。自分の境遇が苦しすぎるために改善をもとめているからだ。理解できる)しかし、私は現政権とおなじくらいにこのことを問題視している。ことがある。一つには、ほぼファシスト・ファッショ、選民意識差別主義国粋主義教育基本法よりも勅語!を重んじるとして4割も支持をしていること。考えて理解している人は別の行動をしているのか、誤解をしたままなのか、とにかく政教分離すら今は行われていないのだ・・・吉田茂もびっくりだろう)
話しがずれたがらこの諺には、続きというか、前述にもでてくる。
「当然ですよ、あんたは貴族階級の自由主義者だし、わたしゃ民衆の代表なんだから、あなたは民衆とは話したくないんでさ。」
「でも、君は民衆を愛しているのかね? 本当かね? サルヴァトー。(略)
ねえ、サルヴァトー、実を言うと、あんたたち共産主義者は民衆を愛するなんて言うが、私に言わせれば、ただ金持ちを嫌う事しかできないんだよ」
「いや旦那、反対してもうしわけありませんが・・・略)」
「こりゃデマゴギーだ、こりゃデマゴギーだ!」
・・・・「私が言いたいのは、共産主義者たちが、民衆はかわいそうに飢え死にしている。なんて決まり文句をいつも唱えていることだ。今日日サルヴァトー、真面目に言うが、ここイタリアで飢え死にする者はもう皆無だよ」
・・・(p22)
いかがだろうか、比喩に使われている飢えて死ぬものが皆無。イタリアではそうだろうと思う。相互に扶助する、カトリックでは自分のために、残った料理を求めている人に無償で分け与える。そして、自分が豊かになれば、それを当たり前と思い、かつての自分とシンパシーを感じて何か社会にできることがないかと考えたりする。実際にはそればかりではない。日本とて、本来的にはこうした類の良いニュースやよい研究、よい成果をあげている人は毎日いるし、受賞しなくても本当に評価され弟子に知識と学知の何たるかを教えて慕われる方は多くいる。知らされないだけである。この話はまた別の機会にすることにしよう。
つまり、時事の話に戻れば、この数年でも飢えて死ぬ幼子の兄弟姉妹も飢えて死ぬ老人ももはや日本では珍しくなくなっているわけで、いかに民衆、つまり我々の世界が崖っぷちか、しかもただの餓死でもなく、孤独死、過労死、過労死と孤独死のコンボまででそうだが、それでも内閣府の調査では幸福度満足度が過去最高らしい。一体、だれの筵の上に築かれた死の塚だろう。サイレントマジョリティである子ども飢餓や貧困にすら、なかったこと、よその家、の感覚。ようするに過剰なオイコス 家 家長主義も問題なのだが、もはやあるところまで、行き着いてしまったのが日本の社会、わが国の現状だと思う。
それでも不満も、他人の家だから仕方がない、という状況なわけだが・・・
この点が一つ。
もう一つある。これから、この登場人物たちはある対話にいきつく。
これは、かつて世界史が激動的に動いてきたときのことを覚えている人は思い出しながら、できれば反芻を願いたい。
「問題は、もしこの共産主義が気に食わない場合に、<すみません、私たちは冗談を言っていただけです。民主主義に戻りたいのですが>とはいえなくなることだ。」
・・・とハッサラクワが言う。
私たちが取り巻かれている状況は、見た目以上に複雑だ。
もう少し前、ほんの数年までは複雑に見えるが、実際には根本的な構造の問題であるとか、制度の改善であるとか命題が持てていた。(つまり対策可能)しかしながらこの数年は、事態は深刻化していてしかも深刻なものほど表にはでなくなっている。まだメディアで取り上げられている事柄や、いわゆるフレイム、炎上(なぜか現在ではトレンドと同語だ、こんな混同は悪魔でも笑うだろう)に現れていることは一端にすぎない。
そして、一端にすぎないことを認識すべきだ。
そうではないやり方、変わらなくてよい部分、ほかの方法、人間には不可能な領域を認識する(可能なことは方法を考え、なおかつ行うかどうかを思慮によって判断しなくてはならない)人間や、自然、法、生命の限度などをもっとリセットする必要がある。
そうでなくては新しいものはみえてこない。
前近代的な亡霊、過去の憲法は現行に変わったが民法や刑事法を考え、近代化をすすめなくてはならなかった時代に、なぜかポストモダンが席巻し、結局、民法の問題も置き去り、教育の問題もその都度一貫性がなく、昔の記憶が失われたのか、勅語が効力を持つなどという・・・。
二者択一にちかい選択ですら、よりましなほうを選択できない現状、....その単純支持こそがポピュリズムに直結するだろうが、あえてその向こうにあって、今から指摘しておきたい問い。
その2は、その反動ともいえる人々の洗濯しがなんとなくか、がっつりか、他にないからという理由で共産党だったらよくなるんじゃないか、と思っている点である。いや思うのはいい。・・・しかし、私には疑念があり、かつての共産国では、「冷たい平等」と私性が抜けきれない、あらたな特権の誕生。
そのなかでも「平等とは本当に優しいもので、豊かさにつながるのか。清貧としての現実世界がどの程度なのか。・・・こうしたことがあまり想像されていないで共有されていないだろうか。
現政権を擁護する気持ちはないだが、気になるのはそこなのだ。
もし、何か公的な制度がかわって、不自由を感じなくなったときに、不平不満からでなく「理想的構成さや再配分について考えられるだろうか。
とにかく、二者択一のような、思考回路のショートや選択肢の少ない錯覚に陥ったりが気になっている。
絶対に、いやすこし人間的にかいておくならば、なるべくならば至極間違えてはならない選択はある、
その選択は現代の世の中であれば、世論を形成することばが説得的であったり、圧倒的に選択を間違うことを誘発するような世論にならなければ、おそらく凡人の知恵で回避できるだろう。
しかし、もし言うべきときと言わねばならない時を逃し、知らねばならないことを自ら収集し意見を持ち声に出すなどをアクションをとらない場合、2017年に成人していた日本人は弁明のしようがないだろう。
90年代から、メディア社会学、西洋史メディア分析などもしてきたが、現在そこまで来てしまっている、と思っている。
この点が一つ。
もう一つある。これから、この登場人物たちはある対話にいきつく。
これは、かつて世界史が激動的に動いてきたときのことを覚えている人は思い出しながら、できれば反芻を願いたい。
「問題は、もしこの共産主義が気に食わない場合に、<すみません、私たちは冗談を言っていただけです。民主主義に戻りたいのですが>とはいえなくなることだ。」
・・・とハッサラクワが言う。
私たちが取り巻かれている状況は、見た目以上に複雑だ。
もう少し前、ほんの数年までは複雑に見えるが、実際には根本的な構造の問題であるとか、制度の改善であるとか命題が持てていた。(つまり対策可能)しかしながらこの数年は、事態は深刻化していてしかも深刻なものほど表にはでなくなっている。まだメディアで取り上げられている事柄や、いわゆるフレイム、炎上(なぜか現在ではトレンドと同語だ、こんな混同は悪魔でも笑うだろう)に現れていることは一端にすぎない。
そして、一端にすぎないことを認識すべきだ。
そうではないやり方、変わらなくてよい部分、ほかの方法、人間には不可能な領域を認識する(可能なことは方法を考え、なおかつ行うかどうかを思慮によって判断しなくてはならない)人間や、自然、法、生命の限度などをもっとリセットする必要がある。
そうでなくては新しいものはみえてこない。
前近代的な亡霊、過去の憲法は現行に変わったが民法や刑事法を考え、近代化をすすめなくてはならなかった時代に、なぜかポストモダンが席巻し、結局、民法の問題も置き去り、教育の問題もその都度一貫性がなく、昔の記憶が失われたのか、勅語が効力を持つなどという・・・。
二者択一にちかい選択ですら、よりましなほうを選択できない現状、....その単純支持こそがポピュリズムに直結するだろうが、あえてその向こうにあって、今から指摘しておきたい問い。
その2は、その反動ともいえる人々の洗濯しがなんとなくか、がっつりか、他にないからという理由で共産党だったらよくなるんじゃないか、と思っている点である。いや思うのはいい。・・・しかし、私には疑念があり、かつての共産国では、「冷たい平等」と私性が抜けきれない、あらたな特権の誕生。
そのなかでも「平等とは本当に優しいもので、豊かさにつながるのか。清貧としての現実世界がどの程度なのか。・・・こうしたことがあまり想像されていないで共有されていないだろうか。
現政権を擁護する気持ちはないだが、気になるのはそこなのだ。
もし、何か公的な制度がかわって、不自由を感じなくなったときに、不平不満からでなく「理想的構成さや再配分について考えられるだろうか。
とにかく、二者択一のような、思考回路のショートや選択肢の少ない錯覚に陥ったりが気になっている。
絶対に、いやすこし人間的にかいておくならば、なるべくならば至極間違えてはならない選択はある、
その選択は現代の世の中であれば、世論を形成することばが説得的であったり、圧倒的に選択を間違うことを誘発するような世論にならなければ、おそらく凡人の知恵で回避できるだろう。
しかし、もし言うべきときと言わねばならない時を逃し、知らねばならないことを自ら収集し意見を持ち声に出すなどをアクションをとらない場合、2017年に成人していた日本人は弁明のしようがないだろう。
90年代から、メディア社会学、西洋史メディア分析などもしてきたが、現在そこまで来てしまっている、と思っている。
ネーミングセンスがいまひとつだが、ゼノンは昔、両耳が二つあるのだからまず話を聞くべしといったという。我々の想像以上に、皆口々にものをいい、黙るべきでないときには理解からではなく沈黙したのだろう。我々は議論することも批評することも歴史がない。ディベート、演説館が日本に完成したときのことを想えばよい。(現在、重要文化財となっている、演説館がそれである。)
そうでないときには、そうではないものを。
気を付けなくてはならないのは、詭弁に即答してしまうことのように思われる。
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