本書についてのあらましは前回、シチリアの詩を引用した記事でもすこし触れたのに先にすすむ。
私はあることが気になっており、些細なことかもしれぬが、現状にある程度関わる面も少なくないように思うので書き留めておく次第。

もともと我が国における「イタリア蔑視」のような風潮はあった、・・・と思う。小学生の時、定年退職や夫婦旅行の旅行定番として「ロマンチック街道」なる文字と高額な金額が新聞広告に載っていた、しかもドイツ、オランダ、スイスなどがメジャーな旅行先だった。その他の文化欄も同様、朝日新聞にかぎらず(祖父が朝日をまあそれ以外の新聞も購読していたのだが)「イタリア人の食事は3倍、スパゲティーはスープ替わり、よく食べてとにかく陽気、ややうんざり」のような論調のコラムが多かった。80年代半ばまでであろう。 実際はイタリアや都市国家の多様さローマからつづく堅実さなどを日本人が知らなかっただけなのだが。
これに対して、ドイツは東西ドイツもニュースやベルリンの壁、周辺ソ連の話題もあり、シリアス一辺倒だった。文化といえばドイツ、ウィンナーソーセージの廉価版が肉の代名詞のようだったし、私の両親もまだ信仰が抜けない模様。音楽もとにかく、ドイツみたいな方も(いまだにいる・・・音楽がドイツのロマン主義以降、オケを指揮する指揮者と大編成のオケのみが「西洋音楽」であろうかのような義務教育もあれば、やはり教育TVではオケの放送なのだ。 因みにわたしは古楽と弦楽七重奏がすきです。
とにかくドイツの影響が強く、イタリアに対していいねLIKE!がついてきたのはこの15年から20年くらいではなかろうか。1990年にNHKが大型本を出版した。(この本は絶版だが、すばらしい本なので一家に一冊くらいそろえることをお勧めする。)
本題。 なぜ現代の日本では、かつてのWW2におけるドイツ軍を賞賛してイタリア軍やイタリア兵士を「へたれ」と呼んで、ねたにしているのだろうか。そういう気持ち、他意がなくとも、済まされないフィーリングである。。
一般的に、''イタリア軍が弱い"からすぐ負けたと嘲笑する話題はネット上でも、ある層の会話でもことかかない。
二つ理由がある。それはおそらく、「枢軸国」という名前で世界史パロらしきものを描いていた方の作品がメジャーになり(どのようにメジャーになったはわからない。内容もそれほど詳しくない。)そのタイトルが、「ヘタリア(へたれのイタリア)のように通称になってしまっていることである。
このおかげで、もはや、世界史好き、世界史研究者、世界史は趣味、趣味が世界史で旅行も趣味、単なる異文化好き、オタクな世界史好き(ただし好きなことしかしたくない。)がまず立場をさぐられることになる・・・・
二つ理由がある。それはおそらく、「枢軸国」という名前で世界史パロらしきものを描いていた方の作品がメジャーになり(どのようにメジャーになったはわからない。内容もそれほど詳しくない。)そのタイトルが、「ヘタリア(へたれのイタリア)のように通称になってしまっていることである。
このおかげで、もはや、世界史好き、世界史研究者、世界史は趣味、趣味が世界史で旅行も趣味、単なる異文化好き、オタクな世界史好き(ただし好きなことしかしたくない。)がまず立場をさぐられることになる・・・・
最初にいっておこう。
最後の一兵になるほど、戦うべきか、名将は引き際をこころえないのか。
近代国家においては、また戦争に慣れている国ほど、市街戦などもってのほか、負けそうになれば降伏、多大な犠牲を出してまで降伏勧告を受け入れるものである。 それをしないのは余りにも、近代以降の経験からいえばナンセンスだ。
近代国家においては、また戦争に慣れている国ほど、市街戦などもってのほか、負けそうになれば降伏、多大な犠牲を出してまで降伏勧告を受け入れるものである。 それをしないのは余りにも、近代以降の経験からいえばナンセンスだ。
それを、、、。
正直なところ、国民を飢えさせ、降伏すべきときに降伏せず、補給もせず、国民財産を守れず、原子爆弾を2回落され、主要な街を空爆に何度もあわせてもなお、降伏をしなかった(ここではあえて、降伏の条件になったことはかかない)国が、イタリア軍に対して「へたりあ」といってせせら笑ったり、ネタにしたりという風潮はいかがなものかと思う。
そして、ドイツ軍に対しては、あろうことか総統閣下とかドイツな世界一〜とか1週まわってドイツの過去の克服や68年裁判などをしらないまま、ドイツ軍かっこいいのような風潮がまた軽くでてきたことに憂慮を覚える。
なお個人的な考えと憂慮から上記にはいくつか例として挙げた内容はまったく個別的な見解である。
さて、さらに本題。しばし、引用してみよう。
「親愛なる技師さん(carissimo ingegnere)これは政治の意見じゃなくって、国際政治の問題なんですよ!とサルヴァトーレが続ける・・・いいですか、ナポリ人はみなイタリア共産党に投票するしかないし、それからすぐNATOを脱退して、ロシアと友好条約を結ぶ必要があるのです」
するとバッサラクアが尋ねた。「でもサルヴァトー、どうして君はロシアがアメリカより強いと思うのかい?」
「アメリカとロシアがどちらかが強いかどうかはどうでもよいのです。でもドット―、ちょっと考えてください。第三次世界大戦が勃発したら、そして私たちが皆捕虜になったら、どうなるかを。−−−こう言いながら、サルヴァトーレは両手を挙げて降伏の真似をした。第三次世界大戦が勃発したとして、も私たちがアメリカと同盟を結んでいれば、私たちはどちら側の捕虜になるでしょうか?ロシアに決まってます。間違っていたら直してください、第一に寒くて、凍えるほど寒いシベリアのような気候には耐えられない詩、第二に、必要な食糧もありません、実際こんな寒さじゃ、凍死しかありませんよ。ところが、私たちがロシア側についていれば、事情は全く別です。この場合は、アメリカ人によって自動的に捕虜にされ、すぐにアメリカに送り込まれるでしょう。アメリカでは主のご加護のおかえで、多少商売でもして、言葉も覚えることができ、物事の成り行きで、戦争が続いても、私たちにはよい職がみつかるでしょうよ!」(第1章 サルヴァトーレ P.17)
・・・・いかがだろうか。
3年か4年前に読んだときから多少世界情勢が大きくかわっているので、あまり間にうけてほしくないのだが問題はそこではない。我々は、いつもこんな発想をするだろうか?悲観論になればまだしも、生産性のない話をしながらジョークの一つも飛び出さず、あまつさえ、主義主張がちがうもの同士が、意見を交換するような場ももうけることがないくらいの、前近代国ではないだろうか...ある人がAと言ったら、他の人が「そりゃまたどうして?」という話にもならない。アムリッツァではないが「わが軍には食べ物もなく」とか沖縄で少女たちが手りゅう弾で自殺したことは、国際的、戦争史のなかでも飛散な出来事である。そもそも、近代国家の歴史が浅いあげく、近代的な戦争や国家国民を巻き込んだ戦争など、近代以降19世紀20世紀の悪夢の賜物なのだ。
その中で、「ヘタリア」とか「ドイツ軍がいい」というような意見はあまりにも・・・。
だいたい捕虜になってアメリカへいったら、主のご加護と物事のなりゆきで、職はみつかるし言葉も覚えるでしょう、と(ジョークでも)我々に云えるだろうか。(いや、ない;)
このイタリアにおけるたくましさ、戦争のために全員が死に傷病者になり、・・・以外に日本における軍事あるいは文学的(文学ではないが軍事マニア作品(やわらかめ)ロマン主義は根深いのではないか、と思っている。
続く。多少なりとも、ルチャー氏のこのエッセイの文体になれてきてくれた方はまた次回もお読み頂きたい。
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正直なところ、国民を飢えさせ、降伏すべきときに降伏せず、補給もせず、国民財産を守れず、原子爆弾を2回落され、主要な街を空爆に何度もあわせてもなお、降伏をしなかった(ここではあえて、降伏の条件になったことはかかない)国が、イタリア軍に対して「へたりあ」といってせせら笑ったり、ネタにしたりという風潮はいかがなものかと思う。
そして、ドイツ軍に対しては、あろうことか総統閣下とかドイツな世界一〜とか1週まわってドイツの過去の克服や68年裁判などをしらないまま、ドイツ軍かっこいいのような風潮がまた軽くでてきたことに憂慮を覚える。
なお個人的な考えと憂慮から上記にはいくつか例として挙げた内容はまったく個別的な見解である。
さて、さらに本題。しばし、引用してみよう。
「親愛なる技師さん(carissimo ingegnere)これは政治の意見じゃなくって、国際政治の問題なんですよ!とサルヴァトーレが続ける・・・いいですか、ナポリ人はみなイタリア共産党に投票するしかないし、それからすぐNATOを脱退して、ロシアと友好条約を結ぶ必要があるのです」
するとバッサラクアが尋ねた。「でもサルヴァトー、どうして君はロシアがアメリカより強いと思うのかい?」
「アメリカとロシアがどちらかが強いかどうかはどうでもよいのです。でもドット―、ちょっと考えてください。第三次世界大戦が勃発したら、そして私たちが皆捕虜になったら、どうなるかを。−−−こう言いながら、サルヴァトーレは両手を挙げて降伏の真似をした。第三次世界大戦が勃発したとして、も私たちがアメリカと同盟を結んでいれば、私たちはどちら側の捕虜になるでしょうか?ロシアに決まってます。間違っていたら直してください、第一に寒くて、凍えるほど寒いシベリアのような気候には耐えられない詩、第二に、必要な食糧もありません、実際こんな寒さじゃ、凍死しかありませんよ。ところが、私たちがロシア側についていれば、事情は全く別です。この場合は、アメリカ人によって自動的に捕虜にされ、すぐにアメリカに送り込まれるでしょう。アメリカでは主のご加護のおかえで、多少商売でもして、言葉も覚えることができ、物事の成り行きで、戦争が続いても、私たちにはよい職がみつかるでしょうよ!」(第1章 サルヴァトーレ P.17)
・・・・いかがだろうか。
3年か4年前に読んだときから多少世界情勢が大きくかわっているので、あまり間にうけてほしくないのだが問題はそこではない。我々は、いつもこんな発想をするだろうか?悲観論になればまだしも、生産性のない話をしながらジョークの一つも飛び出さず、あまつさえ、主義主張がちがうもの同士が、意見を交換するような場ももうけることがないくらいの、前近代国ではないだろうか...ある人がAと言ったら、他の人が「そりゃまたどうして?」という話にもならない。アムリッツァではないが「わが軍には食べ物もなく」とか沖縄で少女たちが手りゅう弾で自殺したことは、国際的、戦争史のなかでも飛散な出来事である。そもそも、近代国家の歴史が浅いあげく、近代的な戦争や国家国民を巻き込んだ戦争など、近代以降19世紀20世紀の悪夢の賜物なのだ。
その中で、「ヘタリア」とか「ドイツ軍がいい」というような意見はあまりにも・・・。
だいたい捕虜になってアメリカへいったら、主のご加護と物事のなりゆきで、職はみつかるし言葉も覚えるでしょう、と(ジョークでも)我々に云えるだろうか。(いや、ない;)
このイタリアにおけるたくましさ、戦争のために全員が死に傷病者になり、・・・以外に日本における軍事あるいは文学的(文学ではないが軍事マニア作品(やわらかめ)ロマン主義は根深いのではないか、と思っている。
続く。多少なりとも、ルチャー氏のこのエッセイの文体になれてきてくれた方はまた次回もお読み頂きたい。

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