ルイス・マンフォード(Lewis Mumford)の「ユートピアの系譜」「技術と文明」を引きながら書かれた1998年の記事(IICHIKO 季刊 夏号)を読み返している。


マンフォードは第一次世界大戦後に最初の著作を出し1990年1月26日に亡くなったが、約100年の生涯であって、彼はこうした経験から多くの著作を著したようだ。書籍だけで30冊以上あるという。現在調べてみるとそのうちのいくつかは翻訳もあり、現在でも評価が高いのは、今日的な問題を指摘しており、かつ我々がそれらをクリアできていないということがあると考えられる。

「マンフォードの出世作、『技術と文明』は、技術文明の壮大な叙事詩とでもいうべきものだ。メインテーマは、技術の発展史と、来るべき技術文明への提言である。
『技術と文明』で最も興味深いのは、マンフォードが、技術の時代区分を試みたことである。次頁の第1図が示すように、彼は、10世紀以降の技術発達を、「原技術期(eotechnic phase)」、「旧技術期(paleotechnic phase)」、「新技術期(neotechnic phase)」の三段階に分けている。マンフォードによると、10世紀から1750年まで続く「原技術期」は、その後の技術発展を準備していた時期である。水力、風力などがエネルギー源として用いられ、道具や機械の材料には、主に木材が使用された。・・・・(中略)
『技術と文明』でマンフォードが明らかにしようとした問題の一つは、「どうして機械がヨーロッパ社会を支配して、ついには、社会が内的に適応することによって、機械に屈服するということになったのか」という点だった。そのプロセスは「旧技術期」に完成したのだ。だが、この本を執筆した1930年代のマンフォードは、技術の将来について楽観的であった。彼は「新技術期」が到来しつつあると考え、これによって調和のとれた世界が回復すると予測した。来たるべき時代には、電気や化学のような新しい技術が中心的となる。電気エネルギーは、長距離輸送が容易であり、工場を地方に分散することができる、化学工業の発達は、生物学の知識とあいまって、浪費を回避する道を開く。機械すらも、有機的なものへと変わっていくという。」(P52-53)

この記事を書かれたのは中島秀人氏で1998年の季刊雑誌に掲載されたものだ。
今日ではどうだろうか。win95が発売されたのがその名のとおり1995年であり、1998年から約18年過ぎようとしている。マンフォードが楽観視できたのは、おそらく、次のような前提をとったからであろう。つまり、1. 個々の技術、知識、研究は進展する 2.それらは必要に応じて結びつき有益なものとして技術社会を形成する ということだろう。そうすると、おそらくだが1に関しては問題はあまりないと思われる。問題は2の問題であり、もう一つは、楽観論に対する次善の策ともいうべきものを想定する制御の技術の必要性、つまり助言やブレーキを利かせられるかどうか、ではないだろうか。

この記事が読める方がどのくらいいるかわからないので、もう少し続けてみよう。

「このような楽観的な見通しは、『技術と文明』が刊行された1934年以降の歴史の現実によって裏切られた。すでに前年、ヒトラーは政権を握っていた。やがて勃発した第二次世界大戦は空前の科学技術戦であり、戦争の無数の犠牲者の中には、マンフォードの長男もいた。しかも、戦争の終了直前、日本に原子爆弾が投下された。マンフォードは、この原爆投下の事実に大きな衝撃を受けた。戦争が終わると、今度は核軍拡競争が始まり、米ソ対立の狭間では、ベトナム戦争が戦われた。木原武一氏の伝記に従えば、マンフォードの人生はここから第三期に入る。(略)第三期の代表的著作である『機械の神話』(The Myth of the Machine)と『権力のペンタゴン』(The Pentagon of Power)は、英語の原題から分かるように、一続きの著作である。両者を貫く主題は、メガマシン(巨大機械)による人間支配である。メガマシンという言葉は、物質的な巨大機械を指すと同時に、人間を部品として活動する社会組織の比喩として用いられている。(略)彼は、メガマシンが歴史上二度出現したと考えている。その第一回目は古代であり、ピラミッドがこれを象徴する。(略)古代のメガマシンは中世になると力を失う、ここからメガマシンが復活する現代までを「機械の神話」の第二部「権力のペンタゴン」は扱っている。マンフォードは、近代資本主義の基盤が中世に起源をもつとしている。だが、そこにはメガマシンの存在は認められていない。しかしメガマシンは、徐々に復活を始める。その兆候を、マンフォードは、機械自体の台頭ではなく、科学の興隆にみている。彼によれば、地動説(太陽中心説)の登場は、太陽への崇拝、ひいては天の崇拝という、古代のメガマシンの思想の復興にほかならない。さらに、新科学でありデカルトやホッブスの機械論哲学は、世界そのものを機械とみなした。生命すら、機械に引き下げられたのだ。その後の、機械化と大量生産の「勝利」は言うまでもないことである。こうして復活したメガマシンには、古代のものには見られない特徴がある。その制度的な必要条件として、「急速な資本蓄積、反複的な資本回転、巨大な利潤に基礎を置き、技術そのものをたえず促進するようにはたらきかける、・・・・・金銭経済があるのだ。
このメガマシンに従属する人間部分は、国民皆兵制、戦争を可能にするための所得税制の導入、機械的な義務教育の産物である。」
(P.53-54)

ところどころ中略しているので、本来ならば全文を読んで頂きたい。基本的に、機械理想は、デカルト的な延長概念だと私は思っているのだが(より早く、より多く、より効率的に・・・moreの概念だろう。より技術力をもとめ、より機能を追求し、・・・・それ自体には問題がないと思うかもしれない。しかし、限度が発生すると、効率化という課題が発生する。よりよいものをより安く。これが大量生産(大量廃棄)であろう。この時点で無駄のないという目的は無くなるだろう。このシステムは前提化しやすいために、問題を指摘されないと人々が本当に困窮するまで止まらないという問題を持つのではないだろうか。技術論と楽観論は相性がよい、だからこそ、問題が露呈するまでが遅く、慎重論は取られにくい、しかしそれで「うまくいく」のだろうか。知識の分断を問題ないとする向きもあるだろうが、そうだろうか。そういった今日的な問題を考えていると、および教育やその結果をみるとやはり問いは解決されていない。主に発明が、異なる知識同士の結合から生まれることと、発想の転換を必要とするならば、この延長概念にとらわれすぎると前提を問うということが遅いかできなくなってしまうのではないか。
他方、機械化はたしかに人々の快適さ、筋肉労働からの開放といった問題とも関係するので一概にはマイナスの問いを採らずともいいとは思うのだが、しかしそれらの元も存在を黙認されてきた「メガマシン群」かもしれないのであって、マンフォードの「メガマシン」指摘は今日的問題を可視化するのにはよくまとまっているし、中島氏が指摘されたこともまだ継続している問題なのだ(むしろよりそれが加速度的拡大的になっている今日では広く指摘されていない)。

一部だが引用させて頂いた。1998年の時点では、マンフォードの著作はそれほど翻訳されていないが、2016年では新書や学術文庫となっている。

ユートピアの系譜―理想の都市とは何か
ルイス マンフォード
新泉社
2000-03


都市の文化
ルイス・マンフォード
鹿島出版会
1974-05-25













「日本の科学/技術はどこへいくのか」はサントリー学芸賞受賞。


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