(今頃か)と思われそうですが、今年夏のヒット作と謳われた映画「君の名は。」(Your Name.)を観てきました。

文章で書いていくことも可能ですが、長くなりそうなので、それは箇条書きの後に。
先にひとことで書いておくとすると、自他認識方法、人知の限界、知者(知)-天使-星辰の了解レベル、および時間の問題でそこに現代的な見地が加わっているのだが、これらを認識しなくても普通に飽きずに観られ、解りやすいのでちょっと驚きました。
それでは...思い出せる限り時系列で(時系列?)この作品はトラフィックスを構成しているのに...



写真は私物です。三分紐ほか持っているもので好きなものを選んでみました。




・とりあえずまずiPhoneが主人公の女の子のものが5仕様(最初は制作した時は5だったのか?などと思った
・主人公の男の子のiPhoneは6. (これは地域差なのかと一瞬思ったが、この時点で細部を書き分けることで説明を省いてみているひとに情報を与える映画だと思い、なるべくそういうところを観ていた。人物をできるだけディフォルメし、背景や観る側にとっての日常アイテムをリアルに仕上げると日常から離れすぎずファンタジーになる。リアリズムもある程盛り込め、だが退屈にはならない。
・父親が井上和彦。(一瞬、諏訪部さんか?と思ったが、井上さんだった)
・神木隆之介の乙女男子演技がうますぎる
・友情出演 ミッターマイヤー元帥 (・・・・)
・ここは東京だ、家を出るときには鍵をかけよう、戸締りしてないよ、忘れているよ・・・・と何度かいいたくなる
・埼玉県民は半端な都市化が何もないのを知っているので、東京にあるものが「価値」(に見えるが必ずしもそうではない。価値の部分でしかない)ではなく、装置の結果や手段にすぎず、「非有(ノン・エッセレ)」であることがだいたい解る部分があるからいわゆる都市部の人にはこの映画のフィーリングはあっさり解るのではないか。または、その装置のアップグレードが必ずしも幸せに結びついていないことを知る世代は。
つまり地方あるいは、システムから遠い自然こそが「何もない」ゆえに真なるエッセレ(有)だと解るのだが。だがそれ故に2000年以降の懐古主義や悪い意味での中世化が酷く何かを停滞させ絶望か失望か諦観が広がっている。当然それは2001年9月11日や2011年3月11日以降の事柄のように、3年前として描かれる。このあたりの表現はとてもダイレクトだと思う。おそらく実写では難しいくらいに。
  
東京に関しては、モーターサイクル・エンプティネスのように、Point of View Point やMusicのように水たまりに反射する往来の電飾や、駅や日常のリアリティ再現に表現や技術を見出すしかない。
飛騨高山に関しては、風景、川、水、空など遠景の風景に美を感じる。しかし、人間世界的には停滞しておりその美をもはや見出す人は少なくなって感動を覚えない。(そのため驚くことがない。逆に言えば、瀧の眼を通すと新鮮さが浮かびあがる。)
都市から観たらこれら風景や日常はもはや失われたものなので、美しく感じるものだ。
・この二人はニュータイプである。(WWくらいのガンダムまではなんとなくわかる)
・ただしアミニズムの単なる讃美としては同意できない・・・
・入れ替わるとき、メンタル女子な男子のほうが、女子から人気がある。逆もしかりで、メンタル男子で女子のほうが魅力的になる。(もちろん、私は逆!という人がいてもいい(ふつうだが)しかしそれでは飽きてしまうような私のような人間は見続けることができるのはこのおかげかも
・だが職場の制服に刺繍してしまうのは私だったらあれで喜ぶとかありえない・・・普通に縫ってくれればうれしい
作り手は男性だからそういうの嬉しいんだ〜.....と違う価値観を知った。バレンタインの手作りとかもああいうことかのかな。私にはわからない。(少数派の自覚はある)
・確かに組紐で髪は結わないように思うし、ゴムやピンを使わず紐だけで髪をまとめられると思われたら、あんな簡単なことなのになぜ毎日できないの?というようなパワハラも発生するなあ、髪をまとめるというのはそんなに簡単なことではないというのになあ....とこれも幻想かな。(日本人は直毛だから美容師さんのカット技術がかなり良いというのもそのせい)その割には、髪を肩上でカットしたら何かあったのか、とまだこんな風に思う人いるのか、と...
組紐自体をモチーフアイテムに入れたのは賛同できる。でもこの作品ではあまり組紐の本当の美しさや魅力は描かれてはいない、描き切れていない。そのためそのあたりに対しては微妙な気持ちになる。結びとしての時間を、主人公のおばあさんが語るが、むしろ、その対極としてよく描かれているのは閾だと思う。場面転換として足元より低い視点(ようするに生者の視点ではない)から電車のドア、家の襖などが頻繁に描かれそれが、Anather View Point となっている。
・ティアマト会戦を彷彿としてやたら不吉だ、終わりの始まりの終わりだ・・・と思っていたら本当にそうだった件
・自電車二人乗り、主人公たちよりはさえない(たぶん凡庸な夫婦となるのが予想される)友人カップル、星が燃えておちる描写などなど、往年のジブリ映画のポイントを序盤はうまく取り入れている。どこも名場面だったのだから、ある程度このあたりの描写が綺麗にできていれば、平均点をクリアしてしまうので、あとはやりたいことに全力をかければいい。うまい作り方だと思った・・・
・主人公の男の子(たきくんか 瀧)が絵が上手い。観た瞬間この子、建築科志望か?と思ったらそうだった
なぜなら私も建築をやりたかったからで、高校時代まではほとんど絵しかかいてなかったからだ・・・才能がうらやましい。
・だがそんな彼はちゃんと就職できるか怪しい。みる眼がない社会だな!
・女の子の母親が死んだときに、病院にいくべきは父親の方だったな・・・・そして婿に対してあのあたりは祖母もきつすぎるな。時間が必要なときに、いろいろなことを焦って決めてはいけない。元に戻すのが不可能に近づく。
しかし、実際にもう彗星が目視できているレベルで、危険ではないのか?と提言してきた娘に対して、電波扱いしたあげくに「病院に(あきらかに精神のほうを疑っているのはたしか)行ってから聞くと」電話をし始める父親。サイコすぎる..現職町長かつ再選を狙っているし、考えたり感じることをやめた投票区はこんな閉塞感なのだろうか...話くらい聞きなさいよ。どういうこと、もう少し詳しく、とか返せないのか。
・というようなドグサの塊がアミニズム世界に鎮座している...
・それにしても本当に知りたいことがあるときの10代の行動力はすさまじい。まあ自分もそういう事があったなと
(あまり変わらないので、それは自己嫌悪する・・・)
・持つべきものは友人 家族構成は多いほうがいい(世代的な触れ合いが多いほうがいい)あまりにも主人公の父親が井上さんという点以外が空気。母親はどうしたのか。
・自分の命よりも大切なものを見つけたということは貴重な経験だそれを得なくてなんの生だろうか。ロマンなのはそれが、徐々に消え、思い出せなくなることの恐怖があるかあだろう、自己喪失とそれはセットだ。
・手に文字を書き始めたときは、The World 戦(対DIO)かディアボロ戦かと思ったぜ・・・・(荒木病)
また時間がとんだぞーッとか、アナザー・ワン・バイツァ・ダストの時みたいなハラハラ感が少しある。
(棺桶の中にいるのは俺だった、花京院は死ぬ前に無駄なことをするタイプではない・・・etc わかる人だけ)
・最初、和歌山県那智の滝あたりが設定かと思いました。(ご神体が遠い云々あそこは瀧自体が神で、それを近づいてみるためには千円くらい払わないとならず、私は普通に瀧を眺めていただけだからよくわからない。水の綺麗さや水の豊富さが熊野を彷彿とさせた。
そのためクレーターが出てきたときは「どこだよここは・・・」(?)となった。飛騨高山と知り、もっとハテナになった。実は自分が妊婦になったばかりのときに飛騨高山に旅行しようと思い(母と)しかし移動が長時間なので、医者の許可をもらって飛行機で九州旅行に変えたのだった。(まだちゃんとオランダ売りしていたころのハウステンボスや別府、湯府院、長崎など。)そのため高山にはいっていない。だからこんな場所だったか?と日帰りでいくような場所なのか、そんなに近いかな、と二回驚いた。

・緑茶描写がおいしそうだった
・ラーメン屋さん親切すぎる。この映画では父親はキャゼルヌやパン屋には及びもしないが、ラーメン屋さんがいなかったら話がすすまないではないか
・息子が家にいるのに、土建と企業行政の交友(とかいておく)の宴会を家でやるとはなかなかえげつない
・そんなてっしーは無線 あの部屋と思考と実行力はまずい、あそこで発散しておいてよかった。あんな家ではそりゃ将来に対して考える気力はなくなると思う。さあね、といいながら、お前いいかげんに「30も過ぎて・・・」(カッコ内にはお好きな数字を代入して下さい、40でも50でも)と父親に言われたら犬神みたいとはいわないが、殺傷事件が起きる。身内の殺傷事件は因習や閉塞感の表れの思う・・・・そうならないでよかった。
だから近代以降という社会装置では家の権限を大きくしないほうがいいのだ。これは個人的な考えだが。  
(逆に言えば警告だろう、映画として)


まだありますが、長くなりすぎたのでまとめを・・・

私たちは、映画を見始める前には何も知らない。(これが人知の状態)
見始めるとストーリーを俯瞰することで、この場合は二人の人間を中心とした周囲の環境や社会、経済、政治、交通などそれなりの差異があるところで追体験していき、さらにそれが入れ替わることで、二重に周囲の人もより複雑に立体的に描くことができている(しかしそれらはどちらかといえば、普通の人の存在をリアリティを持たせるという役目になっている)そしてある事件があり、あったことを彼らを通して知る。知ったからには行動しなくてはと予告する。(ガブリエル的な状態)なぜ、これからおこる事は重大な事があるのに、教えられても無視してるのかと苛立ったら、それは我々があの神社の祭りを優先したり、間違った放送をしたら誰が責任をとるかというレベルのことにこだわって行動できない人たちを愚かだと思うかもしれないのだが、それはその視点において知者(時と場所を超えて知るもの)の視座から物語を観ているからだ。
今、こうしてこれから何か重大なことがあるかもしれないし、現に重要なことが起きているにも関わらず、こうして感想を書いている行為を続けているのも、不知の領域にいるから可能なのだ。すべてを知っていたら何かできようか・・・
始まりも終わりもなく、ただあるもの、メタなレベルで何かを存在させる場となる何かが「神」と呼ばれる領域であって、それは別に神社のことではない。アミニズムの神は神々の多々のうちの一つではあるかもしれないが・・・実はこのあたりを視た人間が考えたり、思ったり気がついたりすれば、この映画は大成功なのだと思う。

そして本当にこまったことに、そんなわけはないと思った単純な名前が、本当に記憶しずらいのはどういうことか
(なぜ勅使河原とかツカサとか奥村先輩は覚えているのに、彼ら主人公二人の名前は覚えにくいのだろうか>老化現象か睡眠不足もたいがいに・・・

名前をかいておこう、もう二度とわすれないように!とあんな苦労をしてまで書かせたのに、手を開いたら「すきだ」ってそうじゃなくてだな!と思いますよ・・・。

何というか多分ですが、原作を読んでも感動しないのは、「時をかける少女」と同じだと思いますが、舞台化された池岡亮介による「時をかける少女」以来に、商業ベースでここまでのことができるのか、という純粋な驚きがありました。

FBで観たほうがいいよ、という感想をみてから、やっぱり観ておかねばと思ったけれども、2016年をラベリングするに相応な映画だと思いました。たぶん、アジア圏で放送したほうがはやりそうです。

今回の件ではみつは(やっと思い出せた)が「知っているからこそ」危険を教えてどうすればよいかを伝えにくるが、ジャンヌ・ダルクなどもこうした理由で殺されたのだろうな・・・もっともあちらは自分たちの利について益があるなら話は聞いただけましだが、この国(のもつ閉塞性)では何かをしっていることやドクサを指摘すると因習的にこういう扱いがあるのか、と。あながち過剰表現ではないように思う。


思い出したらまた何か追記します。
Your Name?でなくてピリオドだから「尋ねている」わけではないのです。知っている、しかしそれが問題であり、知っていることを思い出せないという意味でこの英語タイトルなのかどうか。

ルチャーノ・デ・クレシェンツォは哲学を高校の必修で学んだだけで哲学的なエッセイを書いているが、その中でこういっている。彼は映画もとっている。
「いつも思うのは、映画でよくある、何かことがおきるときに相応な音楽がBGMとして流れてきくことができればいいのに。そうすれば我々はもう少し次に何がおきるのかを予見することができるのに。」






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