前回に同じタイトルで書いた記事の後半で福音書記者(新約聖書はそれぞれに福音書記者と書簡がある)たちの差異が生じることを岡田先生が書いていたので、簡単ではあるがメモしておきたい。
新約聖書がなぜ世界ベストセラー本なのかといえば、翻訳の多さ、文学としての価値があるということはかつてから指摘されている。(逆にイスラームはムハンマドは「コーラン」の翻訳を禁じている。翻訳されれば意味に差異や思惟(恣意)も混入することをすでにキリスト教で知っていたからだ。)
自分がどの程度、キリスト教とあるいは新約聖書を知っているかを書いておいたほうがいいと思うので先に書くこととする。私は4歳からキリスト教系の幼稚園に通っており(当然ながら親が選択。しかし家がカトリックやプロテスタントではない、単なる教養主義的な意味と近いからだったからだと思う。)毎日朝は朝の挨拶ののちには賛美歌を歌う。お弁当の前にはお祈りをする。水曜午前は合同礼拝がありホールで全幼稚園児(3-5)が集まり、牧師かつ園長先生のお話を聖書からの引用を含めて聴く。賛美歌を歌う。日曜日は朝から日曜礼拝があり、これは自由参加だった。(要するに安息日だからだ:生活のすべてに時間と労力を割くのではなく、それをせず読み聴き考え集い何か生活意外の事をする時間が必要であるという考えが安息日)
自由参加かつこの日曜礼拝は通常の信者の方(ご老人や身体が悪い方など)、卒園生(要するに小学生、中学生、高校生)など、その幼稚園教諭のゆかりのある方など子どもだけの礼拝ではないので、聖書と賛美歌集と募金(10円ほど)を持って1時間から2時間くらい礼拝がある。前述したが私の家はキリスト教に通じているわけではないからそういう家はあまり参加していなかったのだが、私は弟と一緒にほとんど日曜礼拝に通っていたと思う。日曜礼拝ではオルガンの音色が綺麗で、私は歌うことや話を聞くこと、本をよむのも好きだったので特別苦でもなかった。(しかしそこで仲がよい友達がいたわけではない。単純に、引用箇所を読んだり、話しをきいたり、幼稚園(あるいは小学校では)謳わないやや難しい賛美歌も歌う機会だったから好きな方だった。
さらに邪道な理由としては日曜学校(日曜礼拝)は半義務なので、月曜日が休みになるのだ。すでにこの日記でも何度も書いているのだが、祖父や祖母は旅行好きだったから、日曜休むかわりに空いている月曜に遊びにでかけたり日帰り旅行にいったりしていたのだった(・・・)
卒園する5歳には記念品で新約聖書を貰ったし、年長くらいになると毎日寝る前には自らを反省して祈ってから寝なさいと言われていた。私はけっこう素直なほうだったので(・・・)実践していたし、キリストにおけるドラマチックな場面はつねにところどころ読むくらいのことはしていた。
・・・・とこの程度なのだが、まったく気が付いていないことが書かれていたので書いておく。
ユダの裏切りの意味とそれに関する記述の差異
・初期にはイエスからユダは信頼され、隠されたことばを特別に伝授されたとされている
13人目のダイモンはユダに「自由意志」を体現させたことに意味を見出す(マタイ)
・ユダはイエスを売った金で土地を買ったが荒れて困窮する カナヴェジオ(Jean Canavesio) (ルカ ヨハネ)
・ユダやイエスを売った金を後悔から返すが自責から自ら首をつって死ぬ(自殺) (マタイ)
キリスト教は自殺を禁じているとされているが、実際にはアウグスティヌスからだったようだ。
ルカとヨハネが書くのは、裏切り行為で得た金で何かをしようとしても何も成さないことの教訓か
興味深いのはユダの自由意志のことである。たしかに、信じているという状態は、逆説的には、「私は本当に信じているのだろうか」という意味を含まなければならない。ソクラテスのダイモンと似ているが、一人の人間にはよいダイモンと悪いダイモン(あるいは大・小)があり、考え迷い決断行動する際にはいずれかの作用が働く。
使徒全員が決して裏切らないという最後の晩餐場面はあまりにも有名だが、つまりもしユダが「本当に最もイエスを信頼し信じていたならば」断言ではなく多少の動揺があってしかるべきかもしれない・・・「人間」「自由意志」を読み取ることができる(かもしれない)のはマタイの記述に多いらしい(私はそこまできちんと読んだことはない。高校もミッション系ではないので聖書の授業などは学んでおらず、大学の西洋史概説(古代から20世紀)オリエント考古学、西洋史特殊、聖書考古学だけは履修して単位をもっている(しかし私は史学が専門ではない;)
さらにもしマタイがいうように特別に、ユダが何かをイエスから伝授されたとしたならば。隠された言葉とは何か。
マグダラのマリアに関する解釈(ユダヤ教であったイエスが30歳前後なら妻帯していたのが普通とされている)
実際に読書していただきたいのだが、もし一度も新約を読んだことがないならば、読んでみるべきだと思う。
(だいたいの旅行先のホテルには英語か日本語の新約聖書がある。就寝前に読むのが必要だからであって部屋の備品となっている)
だいたいにして世界で最も読まれている本でありストーリーなのだから。
===========
何が言いたいかといえば、箇条書きにした点。
オリエントを学ぶとキリスト教の普及にはいくつかの説がある。たとえばアスクレピオス神が病気治しの神性をそのままイエスに変容したからであるとか。(信仰というのは、さまざまなレベルがあるものだ・・・)
まったく縁がないという人は、解りやすいたとえをするならば、某GIOGIOの5部で本当はブチャラティは死んでいるが霊体として目的を見守っていた、達成した後に魂が天に・・・であるとか、今にも落ちて来そうな空の回のアバッキオであるとか4部の慟哭場面などの原形のような文学体だと思う。
(別にこの二つを同等と言っているわけではないが、だいたいの日本のRPGの原形は旧約か新約の内容だといっても過言ではない...だいたいにして、ロトはアブラハムの甥の名前なのだ・・・(だから前回も書いたが竜(ドラゴン・異教/ギリシアローマ)が魔王ラスボスなのだ・・・と高校くらいに気が付いてからはゲームをやっていない。むしろ原典を読んでいるほうが面白い・・・)
コメント