ユダヤ、キリスト、イスラームをそれぞれ異なる「宗教」であると思っている方は多いだろうし、メディア世界とその受容者(要するに我々のような普通の人)もあたかもそうであるかのように報道している。
しかしこの問題はセム系一神教における宗教改革の経過とそれに伴う社会変革を伴っているがゆえに、互いに相いれない状態になっている。(キリスト教においてもさまざまな立場があるがそこには今回は触れない)
自分が未知である考え、価値観であると認めたときにはなるべく、どのような価値性質、志向を採るのかを理解したいと思うことは今までも多々あった。(キリスト教に関してはある程度は理解しているしその価値性質も古代宗教との差異、および古代宗教をどのように取り込んできたかなどとともに親和性も感じる)
イスラームに関しては9.11以降、努めて東洋史とその法制を中心に学んだ。(単位もいくつか取得している、というか一時期は東洋史中東思想史と法を本格的に学ぼうと思った時期もある)
ルネサンス思想を学んでいて、どうしても出てくるのが、ローマ(これは以前からイタリアには残っていた)か古代ギリシア(再発見されたがゆえの、あるいはビザンツ経由か文献経由での)と科学を含む学識系統か、ユダヤ、ヘブライへの道かという分岐点があるように思われる。
要するに例えば、ピコ・デッラ・ミランドラが選択したヘブライズム、カバラとは何か(少なくとも彼が後に最も重視した根源が何か)ということをしばしば、ぼんやり考えている。
そこでレヴィナスのこの書を繙いてみたのだが...
まず中世とは何かをはっきりさせておこう。
レヴィナスによれば、中世とは始まりがあり終わりがある、それは395年から1453年までを指す。
タルムードを一読すると....これが、イスラームや聖書よりも「理解できない」というのが一番の感想だった、こう言ってしまうと身もふたもないのだが、「解らない」(understand=心とともに行く)のだ。正直なところ旧約もそこまで親和性を感じないのだが(あくまで聖典というよりも文学としてである、ちなみに新約聖書が最も世界で読まれている本であるのは今もかわらないが(我が国の人びとがその「本」を未読で大半の生活や経済活動や国際的な活動をしているのもなかなかある意味凄い事だが...)極めて文学作品として感銘を受ける書物であってシンパシーを感じられるのに対して、やはり旧約の神は「怒り」の神なのだろう。(旧約の神はどこか人格神的である)対して、イスラームにおいても初期はやはり「怒りの神」なのであって、「赦す神」になるのはムハンマドが活動する都市を変えてからである。
話しが逸れた。では一体ユダヤ教はいつからあるかといえば、紀元前7世紀のバビロン捕囚の際にはゾロアスター教の影響を受けてより一元化しているといわれている。
「パリサイ派的な意志・・・
「みせかけ(l'apparence)が「現れ」(apparaitre)を変質させてしまう。脱神聖化は新たな別の魔術にすぎず、神聖なるものを増殖することしかできない。」
・・・いかに考えるべきか。
今日の西側(正しくはイスラエルを擁立する側、聖書考古学により聖書に書かれたことはすべて正しい、よってイスラエル建国は正しい、正しいゆえに他(他者)は排除するという古い記述を再生した比較的近代的な問題) と現在進行形で起こっていることも無関係ではないであろう。その問題の根幹の志向性、神(ちなみにイスラームは一者的、有的なものとしてとらえているだろう)の解釈、そのあたりを解きほぐさないと対話不可能な状態が続くのだろうか。そしてこの理解しがたさは、そろそろ、迫害されたユダヤの悲劇(ちなみにユダヤ人とは人種差別ではない。ユダヤ教を進行しているものを指す。)というある意味での思考停止状態から抜け出さねばならないのでは、というのも思われの理由だ。
勿論、この悲劇の事実はもっと言えばさらに考え事実に迫るべきであるし、もっといえば、果たして排他的な多神教はファシズムに近い「あらわれ」として利用されることが多いのではないだろうか。そしてこれらは終わり死語となった話ではないのではないか。
もう一つは、パガニーニ先生の講演を聞いてから(昨年のことである)「宗教」とは何かと改めて考えている。
おそらく、「信じればよいことがある、御利益がある」といったような、自己の利益を願うものや、汎神論はそういう意味では「宗教」ではない。(よくもわるくも)戒律があり、守るべき(またはタブーを可視化する意味での)行動倫理を伴うものなのではないだろうか。・・・我々は楽観的無神論やアミニズム等を漠然と「good(よきもの」と思っているのだが、そうしたことも他者(異なる文化、異なる価値性)を理解するためには省みてみることがよいように思う。
まとまりに欠ける文になってしまったが、個人的読書の備忘録として。
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