「分類上のの純粋さによって採用された二つのカテゴリー、一方には単なるゾーエー(zoe)他方には最大限の価値を詰め込まれているたビオス(bios)の間には、当然、数珠つなぎになった中間発表があり、観察する視座に応じて上昇したり下降したりする人間性の閾(しきい)を行ったり来たりしている。(略」
(ペルソナ、ヒト、モノ P154)

ペルソナは本来、古典劇古代劇における役者が使う仮面だった。人格とは何か、ペルソナであるとしてもう少し読み進めてみよう・・・

「ペルソナの中心帯」(健康な中心帯のみを占めるそれ)であり、その前後には非(ペルソナ:胎児)、準ペルソナ(幼児)、半ペルソナ(精神的もしくは身体的もはや健常者でなくなった老人)もはやペルソナではないもの(植物状態のもの)、反ペルソナ、まで誰のものでもない領域が広がっているのである。」

さらに読み進めると、ペルソナは、成人した夫婦(両親の権力)であり、あるいは聖人した男である。
彼らはの非から半、準、またそれからあらゆるものの高見であり、彼らの行為こそが一見自然に観られていることがらである。
エスポジトはコジェーヴやシモーヌ・ヴェイユの考えを提示しつつ、このローマ法からもみてとれる所有ーの構造、そして他者についてはレヴィナスの先を語ろうと(問題提起)している。


一見したところの主権、人権、生命に対して、語ることは容易であって、今日においては(ローマ法を根幹にもつ西洋であれ、近代以降複数の新しい法が生まれたが、人が家をめぐってその生活圏にいる間に密接な民法は(ドイツしかも小君主国時代から影響をうけた明治民法なのだ...)

大量殺人事件、あるいは多くの人が亡くなる事件が7月から8月に続いた。
これらに対して、被害にあわれた方にはもちろん同情する、しかしあり得ないこがらは行われてしまっている。
何が、個人と社会と家とその環境の間にあったのだろうか。

自我ー他我の外にある「他者」という性質。
これらは私とあなた、でもなく私と我々ではなく、第三者なのである。
第三者とて「顔」があれば(その人の名前、家族、生活など等その人格のすべて)があれば、「他者」とはみなさない。我々は、毎日通勤電車なり、バスにのる際に隣や近くにいる人をどう認識するだろうか。あるいはものを買うキオスクなどの単に商品と貨幣を媒介する人を・・・日本においてはこの日常生活上でも他者の折り重なった状態で「生きて(ビオスかゾーエか)」いる。すでに他者は「ラベリングされた消費者」「視聴者」も同様かもしれない。灰色で、他者が他者としてペルソナの問題も消失する、ただ灰色の世界、
それがすでに近代制度に極度な落ち度をもった日本は漂着しようとしているのではないか、と感じた。

それを進行させないために出来ることはあるはずであり、
それを進行した理由原因もとらえられるべきだろう...







カテゴリーは日記とした。現に今読み返しているため。





アレクサンドル コジェーヴ
法政大学出版局
2015-04-07


アレクサンドル・コジェーヴ
法政大学出版局
2010-04-28

エマニュエル レヴィナス
人文書院
2015-10-30




斎藤 慶典
勁草書房
2000-11





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