イタリアン・セオリー (中公叢書)
岡田 温司
中央公論新社
2014-02-24




「・・・9.11後ますます自己免疫化していく社会が自殺行為に向かっていることに、フランスの哲学者(*前掲でジャック・デリダを指す)は鋭い警告を発していたのだであった。が、ここでもエスポジトの論点はやや異なる。デリダが語るウローバルは自己免疫化の危機とは、生政治にかかわるというよりも、むしろ宗教と科学技術に関するものである。(中略)しかもデリダが語る免疫とは、ほぼつねに自己免疫化のことであり、その意味においても、自己破壊的なものである。
かたや西側も「予防のための戦争」という欺瞞以外の何物でもない論理を振りかざしているが、これもまた、自己免疫化の歪んだ表れにほからならない」(「イタリアン・セオリー」 p.58-9)

今日、いや9.11以降、「予防のための戦争」論はもはや空気のように透明に我々の「常識」を覆い尽くそうとしている。しかし、「テロとの戦い」のための「戦争・暴力」論がいまひとつ、(良識ある人たちにとっては)詭弁、欺瞞、扇動に感じるのも確かであり、この指摘は重要だと感じている。

つづけてみてみよう。

「さて、エスポジトの語る免疫化は、デリダのそれと共振しつつも、まさしく生政治の舞台の中心にその位置を占めている(中略)この観点からすると、ナチズムは、完璧なる免疫化の志向によって、自己と他者との完璧なる破壊といういう事態を招いてしまった生政治にほかならない。生政治が死政治にへと転倒すれとすれば、それは「イムニタス」という装置が極端な形でそこに介入するからである。(略)
ところで、そのナチズムはもはや過去のものになったといえるのだろうか。答えは残念ながら、否である。なぜなら、バイオテクノロジーや先端医療が追及しているような、遺伝子の選択や胎児の選別などは、基本的に、ナチズムによる死政治の免疫的手続きを、合理的に見えるような形で焼き直したものにほかならないからである。
自由な民主主義を謳歌しているかに見える私たちは、ナチズムの対極にいるどころか、生政治と死政治の狭間を(中略)実はナチズムが残した負の遺産をそれと知らずに受け継いでいる。

つまるところ、ナチズムが生物学を政治化したとすれば、現代は、政治をますます生物学化させているのである。」・・・・(同 p.59-60)


今日の我が国では、それではどんな例が挙げられるだろうか。
生命は自由であるか。何かしらの権威によって生死は選択せざるをえないものになっており、すべてではないにしても・・・考えてみたほうがよい。おかしいと思ったときに、選択の余地なく動けない状態になってから嘆く前に。

D先生ご夫妻を東京に案内する日も、「イタリアン・セオリー」を読んでいた。(D先生たちは京都では岡田先生に案内をうけたと聞いている)岡田先生はアガンベンとイタリア現代思想の講座に一度出席しただけなのだが、ゆかりある方には東京でも京都でもお会いすることが多い。

このところ、持ち歩いている本で他にもいくつも今日の問題の論点を示す部分がある。


未読のかたにはお薦めしたい。







カラヴァッジョ鑑
岡田 温司
人文書院
2001-10










既読のものとまだ読めていない書籍。
購入するための自分的なブックマーク。それにしてももう少し図書館にいく時間を取らねば...(反省)