「彼がうまれたとき(1694)には、ヴォルテールではなくて、フランソワ=マリ=アルエと呼ばれていた。パリの公証人の五番目の子供として生まれた彼は、まず自分の家で、代父シャトーヌフ師の指導の下に学び、次にルイ=ル=グラン学院でイエズス会士から学び、そして最後に「自由思想家たちの集まり(Cercle des libertins)の若干の師匠たちの許で学んだ。こうしているうちに、キリスト教徒たちの退屈な考えを享楽主義者たちのいささか不謹慎なそれと均衡させることに成功する。いずれにせよ、彼の最大の功績は寛容のうちによりよく生きるための鍵を発見したことだった。」
p.131 第19章 ヴォルテール
時代の転換期には二つの極端(一見かもしれない、読者たちが極端に解釈しそれぞれを旗印にしたのかもしれない)の均衡がうまれることが多いように思う。こうしたことを混淆と断じてはならないと私は思っており、それぞれとなぜそれらが成功しその後の世の中に浸透したのか(法や制度や人々の幸福度に反映したかあるいは自由な言論、文化などが生成されたか)をみる必要があるだろう。引用内の生年は付記した。
「ときどき曲がり角のような人物が生まれることがあるし、私たちも二つの時期に時代区分することがある。(略)
ところでヴォルテールに関しても同じことが生じたのだった。啓蒙主義者にとって誰か啓蒙してくれる人に傾聴する必要があるとしたら、彼以上に、傍にいるすべての人びとを啓蒙してくれる人は皆無だったのである。(中略)
26歳でもう悲劇『エディプ』(1712年)により劇作家としてデビューした。その後演劇のために、一連の詩や小説を書き続けた。ところが英国での三年の滞在のおかげで、ある日哲学を発見し、そしてその経験から、数年後には『哲学書簡』(1734年)と『形而上学概論』(1734年)のような著作が出た。彼はバークリー、スフィフト、クラークと次々に識り合い、またロックやニュートンが著した著作も読んだ。こうして彼はすっかり別人になってしまう」
しかし大抵の場合と一緒で、すべて成功する時期というのはあまりない。
「彼は多くのエッセイを書き下ろしたが、必ずしもこれらを出版することはできなかった。あるエッセイは印刷される前に焼かれたのだが、逆に他のエッセイは筆名を用いたために救われた。」
こうしてみると百科全書派周辺の歴史、思想史は近代を考察する際には避けて通れない。
こんにち中世・ロマネスクが隆盛しているけれども、ある種それはファンタジーとして語れるからではないだろうか。(日本でいえば、この近年が戦国時代ばかり大河ドラマになってるのと同様。政変時や動乱期、転換期にこそ歴史としてみるべきできごとがあるのだが)
ダランベール同様、彼もまた多くの師、代父の学びと多くの階層との繋がりがある。また私的な教育機関で学ぶことも注目するべきだろう。
治世や今日の経済・社会・学術から歴史や思想史を追放すればおそらくは国としてうまくはいかないだろう。
高校、初期高等教育でいわゆる文科3科目専門の人ほど物理や地学、科学史を学ぶべきだろうし、理系といわれる分野では思想史を科学史とともに学ぶべきで、多言語教育が必要になる。
松本 正夫
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