「「正午、アテネの遺跡では、それほど大きくないオリーヴ樹の幹に、蝉がとまって短い鳴き声を発しています。日本でよく見かける種の蝉より。ひと周り小さいようです。光と土に囲まれ風が、木の幹を涼しく通り過ぎます。
ムーサの女神たちが歌う声の快さに心を奪われて、寝食をわすれ、干からびて死ぬまで歌い続ける人たちが蝉になった。そういわれています。彼らには神々から、特別な役割が与えられました。学問や芸術、宇宙の秩序など、ムーサの女神たちそれぞれが統括する学芸について、報告をするという役割です。・・・・(中略)
本当の「音楽」(ムーシケー)つまり哲学に従事すし言葉をうむかどうか、セミたちは私たちを見張っているのです。・・・」
「プラトンとの哲学」(岩波新書)より
数日前に、夜22時をすぎてもないている蝉について書いた。
昨日ある研究会へ足をはこび、帰宅するころ23時近くでもはやり蝉は鳴いていた。
蝉たちが見張っている。
それはほんとうにそう感じていたので、「第七書簡」に関するこれ以下の記述をみたときに、なんともいいえない、いやもっと正直にいおう。理由がわからないが涙が出てきたのだった。
現代の蝉たちは、私には歌ではなく嘆きや生き急ぐあまりの悲鳴に聞こえる。
それがそう聞こえなかったのは、今年は京都本能寺境内で、住職から声をかけていただき、読経をきき、40分のあいだ遠くに聞こえる蝉の声に本来の夏の音を聞いたときであった。
まるで、時間を拘束され、発言も強制され、居場所がなく陽の光にあたる時間もなく、なにもわからないまま泣き続けて生成をめざし消滅する・・・何か時代的なリアルタイム性質を、感じ取ってしまったのだ。
帰りの電車にのったとき、あまりにも「唯名論」に傾いている志向に愕然としたのだった。
実、有、普遍、本質これらが、何を意味するか問われないままに、語られることの空しさ。とてもむなしく、知の横断性、そういったかつて私が学びを受けてきた世界観、知識の集積からの断絶を感じた。
感情的理由ではない涙が止まらなくなってしまった。
すべてではないが、私はなにを空虚に感じているのだろうか。・・・・それはここでは言及しない。
おそらく語る機会があるだろうから。
プラトンの言葉を考えつつ、ソフィスト的論駁を読み、先月読んだソフィストの内容を考えるとき。
私がかつて言葉によって力や発想の転換、認識のかけらをひろうことができたように、
なにかしらの言葉、書物、語られ考えつづけられることの、小註解の小さなもののひとつとして、
可能態であるうちになにかしらできればいいと思っている。
世界バレエフェスティバル期間中ですね。
私は一公演のみ行く予定です。
芸術表現についてのバレエについて、納富信留先生の言及が正鵠を射ていると私は思っている。
英国の大学にはカレッジ《学寮があり、多様な分野の人があつまり夕食をともにしながら話し合う機会が日常にあるという。こうしたことの違いが、基礎的な教育でも高等教育にも反映し、その差はあまりに大きな気になってしまう印象をもっている。
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