読書メモとはいえ、話題が散乱しそうだったのに、別記事に。
マッシモ・マッチャーリとモダニズムの天使たち、この章で解説されるのはショーレムのベンヤミンの天使は、根本的に「メランコリー」のかたちをとる。
カッチャーリの『必要な天使』第2章では
もともとギリシア、ネオプラトニズムの伝統において天上界における私たちの身分であり、根源のイメージでありう、神と地上のわれわれとの「仲介的存在者」であttからである。(そのため悪魔とあらゆる意味で区別される。
さらに、ソクラテスが対話篇で用いるダイモンも、今日的な感覚でいうところのデーモンとは区別され、これらは、仲介し不死なるもの、神々の血、自然の法則など従来の知に加ええた、本当のところ何なのか、言論で解決できる成熟した、ロゴスを共有できる場を目指した上昇ベクトルを有した「中間者」なのであろう。
我々の中にもいるはずである。
煉獄や死後来世、あるいは義務以上の保守思想に単に迎合せず、書籍・・・過去の先人、あるいは先生がたとの会話のなかで見出せることが。
岡田先生の著書を、成田の行きかえりに読んでおり、改めて気になったところを読書メモ。
ルネサンス研究者でのセレーナ博士のスピーチはどこかアガンベンとエスポジトの中間、あるいはネグリ的なものを感じつつ、大変興味があった。
「哲学とは何か」
私たちの生活とはかけ離れている?もしくは出会う機会が失われている?
最近、理系(というくくりはすきではない)が学問の府として不毛な議論があるうようだが、あいかわらず二者択一なのだ。それがもっとも問題である。
いうまでもなく、海外の大学とは、広い知識を包括的に学ぶ研究ができ、フランス、イタリア、(国際バカロレア)は高校時代に哲学(フィロソフィア)は必須なのだ。
もし公立一貫校、一貫校、私学であっても数学史を選択カリキュラムとし、理系と法学部、文学部の一部の学科は大急ぎでフマニタスについて習得できなれば、狩りに海外にでたところで話題に事欠くと思われる。
日本のクラシックは、ほぼ小3からの受検勉強え習い事もピアノもスポーツもとん挫している状況だ。
文化とは継続性であってはたして。声だかに「日本文化」「一番すぐれている」という意見が多大のようだが、根拠がわからない場合が多い。しかしながら、日本の優れた技術を批判する方たちは、愛着をもめて使っているのだろうか。
アガンベン、カッチャーリ、エスポジトに関しての記事は読む方に夢中になってしまい、今年は読書メモを残せていないほうが多いです。
(同理由でアリストテレス講座、こちらも別に記事で)
8月16日夕方より、プラトニズムおよび、対話篇「ラケス」「国家(ポリテイア」の勉教会をします。
担当者は私。
実施は都内ではありません。メトロで30分くらいの場所です。今までTwitterやブログ経由でもこの話題に関心がある方はメールフォームまたはTwitter DM等でお問い合わせください。夕方より。
ラケスをご持参下さい。一読。国家は必要に応じて資料やこちらで作図しものを、(つくらねば?)
本来の意味のシンポシオン的に考えておりますが。少数定員制。
資料代と講座中の紅茶代で数百円のみ頂戴します。
花とインテリア 華道 アレンジメント作品ブログトーナメント
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