岡田 温司
中央公論新社
2014-02-24



成田往復していたり、病院の待ち時間、読んでいました。
引用して残したいメモがるのですが、もう少し余裕があるときに


パウルクレーにする<新しい天使>についてベンヤミは二つに分かれれている。

(「わたしたちの来ている世界は過渡期である。昨日の世界から今日の世界への移行なのだ。形象の寒々とした洞窟には、残骸が転がっている。人間はまだ未練がましくあたりを徘徊している。残骸は、抽象化の素材となる」)

「--此処と彼彼のあいだの秤、昨日、今日の境の天秤となるのは、なんと苦悩に満ちた運命か」

これらはベンヤミンが書いた「歴史の概念について」の中で述べる一節、つまりパウルクレーの天使に述べるひとことに通じると著者は考えて続けている。


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かつて以前の記事でもポストモダンについては私は批判的な立場の上で書いてきた。

イタリアン・カテゴリー 「建築の堕天使」の章で、モダニズム建築に触れながら語られる。


「神話回復的なカーンの厳格な建築手法と、ラスヴェガスに象徴される卑俗なものの神聖化へ向かうヴェンチユーリ。それらは「近代建築の再興のための対立する二つの仮説」とみなすことができるか、どちらもそれらは「近代建築の再興のための対立する二つの仮説」とみなすこしができるが、どちらも「ノスタルジー」の産物にすぎない。ともに、「自己反省=反射というイデオロギー」に立脚しているが。「語りえぬ歴史の中でみちを見失いながら、自らの参照物を求めてアヴァンチュールの立ち」に勤しんでいる。・・・」

(P136 イタリアン カテゴリー 詐蓮/ 岡田温司著: 京都大学 2014)

近代とは何か、それを考え実現のための道のりは、忍耐、そして伝統を引き継ぐ仕事が不可欠なたため、私見では、これらを避けたがゆえに、一位時期に「ポストモダン的ロマン主義」のようなものが我が国では生まれてしまったように、今も思うのだが。・・・・



さて、本文に戻り読書を進めよう。

<新しい天使>を描いたあと、仲間の画家たち、フランツ・マルクやアウヴスト・マッツらが徴兵され、マッケの悲報の後に、クレー自らも徴兵されることになる1916年までの断片的なクレーの日記。

そこで冒頭に引用した一文へと戻る。