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ようやくお雛様を出しました!!
リビング・書斎の丸テーブルの上に出しています。


2015-02-18-07-23-49

久々に2階の写真を...ローラ・アシュレイのチェスト・オブ・ドロワーズ。
ローラの家具は基本的に飽きるとか不満はないです。なんだろう。
買うときにはたしかに安くはないですし、似たものがあるのではと思うかもしれませんが、しっかりデザインの様式が固まっているので飽きないのだと思います。

家具はずっと長く使っているものばかりで、他はカリモクと穂高(これは夫の趣味。でもそれらの家具をおくことを前提にインテリアは考えました。壁紙、床色(オーク・ロビンスの床)等。

ちょうど娘が生まれたころに、平安雛のブームがあったのだと記憶している。
2000年以前の、今思えば近世ー近代批判のひとつの形だったのかもしれないと今は思うし、そうでなければこのスタイルを購入していない。今現在何かそういう復刻ブームのようなものはあるのだろうか。
選んだポイントは、表情はもちろんだが、着物の色調、色柄、背景の蒔絵の質感などだったと思う。
平安時代が好きかどうかと言われればそうでもないのだが、一口に日本の文化といってもそれは多層かつ多様なのであって、ひとくくりにするのはどうかと思う。時代によって様式変化するのが良いことのようにも思うし、それらは常に外部からの文化輸入と内部昇華によってなされてきたようにも思うため、文化的に画一化したり排他的になるのは単に硬直化することを意味する。



GUCCIのクリス・ナイトによるフローラ柄のカタログ。4色の表紙別に頂きました。並べると色調が美しい。
こうして写真でみると絶妙にディフォルメされているのがわかる。
(フェルメールの絵も、絶妙なディフォルメがなせる技術なのだ)

花の女神フローラ。ボッティチエリが<春>で描いたフローラ。
生成の神秘と美と賞賛がそこには描かれているといつも思う。
だから私は、<ヴィーナスの誕生>よりも<春>が好きなのだ。図像学の魅力のすべてを持つといっても過言ではないほどではないだろか。(おそらく、その類似がデューラー <メランコリア供笋覆里世蹐Α)
しかし色彩といいテンペラ画の技術といいやはりボッティチェリの<春>は私にとっては特別である。
しかし義務教育期間中にルネサンスを教科書で学んだときには実は何も感じなかった。やはり作品は図録であるとか美術本で観なければわからないし、もっといえば、印刷や写真で再現できうるものではない。
技術が高ければ高いほど、その作品がもつ唯一無二の魅力があればあるほど、本物を目にしたときのインパクトがある。ひとことでいえば有(エッセレ)ということになると思われる。
(フィチーノは芸術を模倣としてそれほど高く評価はしていなかった、それに興じていたムードを歓迎しなかったのだろうとは思う。想像なのだが...彼が高く評価していたのは音楽で実際に竪琴もひいたらしいのだが、ルネサンスの音楽と宇宙における天体が奏でる音楽という特別な感覚は面白い。それも人間には聞こえない音楽なのだ!ハーモニーの起源の調和とはそういう意味での音楽なのが興味深い)

そういう時代背景を考察することには興味がつきない。我々を魅了するルネサンス期はより理解しようとすると今日的な感覚では接していては理解に近づけないことがわかるためである。

そうしたことを踏まえても画家アレッサンドロに興味がある。彫刻ならば迷わずにドナテッロを挙げる。

フローラはFirenzeの名前の起源。そしておそらくはエトルリア文明の名残も含まれている。

花鳥画は日本の美術にも、ローマ時代のフレスコ画にも観られるが、自然の生成消滅への憧憬がそれを描くときの技術の高さに表れていると感じることが多い。

それらは人間の限界を悲観的な意味ではなく表象することが可能だからではないだろうか。