豊洲ユナイテッドシネマ シアター10(400席)での舞台『マルガリータ』上映会トークイベントへ。
ららの豊洲は都市計画としての親水性をとりいれてますが、久々に来てもシネマのフロアの窓からは海が見えます。
上映会、とは舞台を映像用に録画編集したもの(DVD用)を観客と一緒に上映会で観る!というものです、わざわざ説明するのも...ですが、パブリックビューイングのライブ中継でない版+ライブによるトーク、インタビューつきのイベントですね。
<プレミアム上映会> 天正遣欧少年使節を演じた、伊東マンショ(井深克彦)、中浦じゅりあん(鈴木拡樹)、原マルチノ(染谷俊之)、千々石ミゲル(細貝圭)さんたち4名とプロデューサーの座間氏(座間P)が登壇してのトーク(約45分くらい?)でした。

海にゆかりのあるマカオからローマ、長崎を舞台にした本作にはぴったりな感じも?

お芝居。
映像を大スクリーンで見るとまた、全体をくまなく見られるメリットが。
いな姫様、演技や所作、役としてのセリフも感情と一致してして衣装も良かった。暮れに映像でみたときも思ってました。

中浦じゅりあんを演じた鈴木拡樹さん(ひろきくん)の、最後の奉行所での台詞。
案ずるな、この一言とそこに集約する物事、生死、この先。
上映会後のトークでは、印象に残るセリフでこの言葉とそこにいたる場を挙げてました。
そう言えばそうなんですね。
じゅりあんに案ずるな、と言える立場のひとがあの場にはもう一人もいないんですよ。しかしそれも理解し中浦ジュリアンは受け入れている。

何故かボエティウスを一瞬思い出した。
ボエティウスは古代ローマ古典期最後に獄中で「哲学の慰め」を書いた人でなんとも同情するのだが、中浦じゅりあんはそれを想起させる。
彼の生き様は心に響くものがある。

それと同時に、パレイゾンを読んだあとにマルガリータを観ると、ミゲルの苦悩(世俗権力との確執はともかく)
冒頭の秀吉からの言葉「お前は、自分が理解できないものを信仰しているのか」といわれたときからの彼の苦悩や自己問答の苦しみが舞台でみたときよりも理解できるように感じた。
その表現が恐らく三原則的な芝居のフォーマットになれてしまうと、ちょっと??となるのだが、おそらく映画などで表現するならば、苦悩の末に教会を打ち壊してしまうときの正面からの表情の表現なども映し出せるのかもしれない。この人の「他利」を思うがゆえのミゲルの受難というか、一貫性が破たんしてしまうことももう少し理解できるのかもしれない、と思った。

アガペーというのはユダヤでの神への愛で、絶対的なものである。フィリアは友人家族など人との間の愛である。キリスト教はアガペーを第一にしつつもそれは人々の間で共有され、隣人を血族地縁を超えてつながりをもつ。封建社会とマッチしないかどうか、といえばヨーロッパも封建制度だったのでそれは条件ではないだろう。
何が日本に強行に禁教令が出させたのか。単なる宗教や権力の問題なのか。最近の疑問はこのあたりであって、パリ大学などで当時アリストテレスが問題になっていたのは自然学と科学を含むからだとされる。しかしトマス・アクィナスを通じて13世紀までにはアリストテレスはキリスト教の中に根付いた。
日本において禁教令が出されたのは、自然学、天体学、論理学等を含む学問体系が封建社会(支配)と合致しないと判断されたためだったからではないだろうか。 または為政者の好みで迫害が起きたとして、それがあまり省みられてないならば、我々は生きることにも死ぬことにも楽天的すぎるように思う。

マルガリータ本編の冒頭では、ヨーロッパから長崎に帰ってきた彼等使節から天体論について語られるところがある。
いろいろ最近読んでいると1995年の長崎の学林での講義要綱にはアリストテレスの天体論が書かれていて、伊東マンショらはこの講義を通じて間接的にアリストテレスも学んでいた。しかもラテン語で。

この日も今道友信先生の「人類の知の遺産 :アリストテレス」(講談社学術文庫)を読みながら電車にのっていたのだが、前半に古代ギリシア時代から順をおって日本における受容も簡潔にまとめられていたので引用しておきたいと思う。

「アリストテレスはいつ日本に来たか。もとより、その書物が直接に日本人に読まれるということは、いわゆる文明開化以降のことである。しかし、アリストテレスの思想そのものは、意外に早くわれわれの国にもたらされていた。少なくともスペインでイエズス会の哲学訓練をうけた俊才のパートレ・ゴメスがキリシタンの学校において使った『綱領(こんぺんてぃうむ』にはアリストテレス風の天球論が載っていたし、そこで彼が教えたカトリック教理神学の大体は、ラテン語化したアリストテレスの用語がトマス哲学の形においてであれ、移入されていたことは間違いない。その文献の証拠になるものは、ドミニコ会修道者ルイス・デ・グラナダの著作の和訳で、長崎で1599年に出版された「ぎやどべかる Guia do pecador)である。(中略)

そのころの文献として周知なものに、『イミタチオ・クリスティ』(Imitatio Christi)の日本語訳Comtemptus mundi(世の空しさ)のラテン音で日本語に訳された題をもつものが慶長15年(1610年)に出版されている。

今道友信 『アリストテレス』(講談社 P.52-53 日本とアリストテレス)」

劇中では語学がもっとも堪能だったとされる原マルチノ(染谷)はマカオへ再度旅だったが詳しい資料はのこっていない、もし、と考えてしまうのは、彼らが適切に重用され、ほとんどの近世国家の解明君主が学術を庇護したように日本で信教自由と学術研究が限定つきでも認められていたら...と思わざるをえない。
長崎26聖人は国外で有名で、昨年版画展が行われていたジャック・カロ展でもいくつもの作品になっていた、そのくらい記憶されるべき迫害だったということだ。

禁教令の後、アリストテレスを背後にもつものは新井白石らがあげられるが、いずれにしても明治期まで科学も学術も明治期まで断絶してしまう。・・・・







ミゲルがたまに語る二つの言葉は真実はどちらなのか。
「私にはお前がいる。(夫婦になる」
「この女は妻ではありません、そう思ったこともなく、心は修道士だった私がどうして妻を持てるでしょう」
おそらくどちらも真実なのかもしれない、自分の中の問題としてもそんなときが時に応じてあったというミゲル(を描くことで人間の)定まらない生(幸福とはいえない)と、定めた生にそって生き死に(処刑)されたジュリアン(鈴木拡樹)はここでも対比的、コントラストが素晴らしいと思う。この混濁した漠然とした信仰が何よりも苦悩の原因であり、それは、強制されもしないのに信仰を捨てると指摘したジュリアンのいう通りなのだ。

このあたりが解けきれないところがあえてドラマとして数回見てしまうのかもしれない。
染谷マルチノと伊東マンショのカレッジでの話やラテン語堪能エピソード、天正使節になる前のあたりも続編かマルガリータ改訂版見てみたい。
学林時代のヨセフたちとのエピソードなども本編からは想像するしかないので、渡航前も気になるところ。多分、アレクサンドロスとその学友とかリュケイオン、ミエザとかのイメージやパドヴァ大学のイメージが好きだからでしょう。プレトンが演説したときのフィレンツェドミニコ会とか。
ミゲルやマンショ、ジュリアンが帰りたいと言った日々の場面とか。語学堪能なマルチノとか。

藩内および家と信教、敵対勢力との宗教不一致、江戸になると踏み絵も始まる。
このあたりの大村(八神蓮)の葛藤と議論(武智健二さん演じるところの家老)の場もリアル。今日とて、打算的な保身はいたるところにある。
選択する側、統べるものは迷うだろうし、真意の見えづらい要求は支配者側からつきつけられるものだ。


ざっくりと覚書。
演者さんは、大きなシアターでみると、細貝さんはすごく脚の甲が高いですね、バレエ観点、フランス宮廷もののようなサンジュスト的な役もあいそう。
鈴木じゅりあんは、学友、信者の民には本当に微笑みがたえない、他方言葉では明確に抗議や合理的説明を冷静に行なう。言表が一致していて心のままの言葉が語られるからだと思う。
最後暗転後に中浦がうけた刑苦、刑死が語られるが、語られた中浦じゅりあんと鈴木拡樹さんとが重なるのです。そのリアリティ。それってすごいことだと思うのですが、4回目見ても感じるものが大きい。

改めて見ると、着物、衣装着替えがされていました。女性のキャストさんも年代や場に応じて何度も着物を変えてましたね。

(相変わらずop,edの着物を着てのダンスシーンは改定したほうがいいとは思います、和装がきれいにみえないダンスは民衆っぽさを超えてちょっとはしたない感じがしてしまうんですよね...)

八神蓮さん、白又淳さん、武智健二さんのお芝居のクオリティも好きです。
本当にこの方々は時代ものが合うと思います。ぜひ続編や再演でも見てみたいです。

トークでは鈴木じゅりあんは、年齢を重ねてこの芝居だったら秀吉を演じてみたいと思います。とコメント。
井深(かっち)氏は、楽屋エピソードで、たま役の「マルガリータ(真珠)、かわいい」という台詞マネを(やってくれました)本人前でしていたという話でその再現をしてくれました(笑)こう聞くとかわいくてもかっちはやっぱりかわいい(男の)役者さんなんだなあという新鮮さが(あたりまえですが、ハイチェアの座り方も女子っぽい井深氏だったので)

座間さんが登壇されていたので一言、長崎での染谷俊之(マルチノかつフロッシュの染ちゃん)さんはもし二期があるなら各地レポート見てみたい、と思っています。染谷さん、舞台のマルチノ君役以外だと観るの2回目でした。染谷サイドの前列のほうの席にいたので、帽子のかぶりかたがスタイリッシュ。
全員黒・グレー系の着こなしでした。
舞台向かって上手から染谷さん、鈴木拡樹さん、細貝圭さん、井深克彦さん、座間プロデユーサー。
この並びなので、座間さんが話題を振るとみなさんやっぱり座間さんのほうを向いてお話されちゃうんですよね、染谷さんはすごく気遣って会場を見渡してくれてましたが、それだったら座間さんが上手か下手、少しならびを前列後列でわけたらよかったのかもしれません、とにかく一番大きなスクリーンのあるシアターですので!
不満とかではなく、途中なんとなく思ったことでした。でも実際どうすると見やすくなるのだろう...または座間Pをセンターに(?!)するとか....どうすれば会場全体から見やすくなるんだろう、とか思ってしまうのはもはや職業病です。もはや井深(かっち)進行役でもよかったかも(笑)いや、最近進行役上手いと感じるので...


あらためてこうして見ると、完璧さを求めると仮にするなら何が完成度80%に足りないあるいは過剰なのか。
ヴァリニャーノは、イタリア関係のかたに協力お願いできないのかな、またはもう少しはまる方。大堀さんは裁きなど時代ものの演技はナチュラルですが、どう考えても、偽イタリア語講座風コント?はいらない...。
ユーモアの部分は残しながら、もうすこし形を形成して衣装ほかを考えれば、新橋演舞場、シアターコクーンあたりでも公演できそうなんですけどね....無理に真面目すぎる演劇にそぎ落とすことはしなくてもいいのですが、なんというか芝居のテンポを崩さずに... 構成といくつかの部分の修正でこの時代を扱った舞台としてはいいものとして残ると思うのですが。などと、電車で帰りながら考えてしまいました(笑)

スマホらの更新苦手なので何度かわけて書いています。思い出したら追記します。


有楽町、日比谷用事をすませてから豊洲へいきましたので、イギリス大使館の食情報サイト&ヴォーグに乗っていたJS foodies (ららぽーと豊洲1階)で、ラクレットチーズ、グリル野菜、ジャスミンティをいただいてきました!
グリル野菜、かぶ人参、マッシュルーム、ペコロスなど黄色いホクホクのおじゃがにチーズ。

  



このカンパニーで再演か、また歴史を語りなおすような舞台をやりたい、と言われてましたが、ぜひ継続して新作を、いずれ改訂版も期待しているシリーズです。

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