数日前にカッチャーリのグローバル主義とローカル主義についての読書メモを書いたが、その続き、第三章の問い。

「悲劇的思考」とも形容される後期のパレイゾンにとって、最大の関心は、神の存在と悪の存在とをいかに思考するかという点にあった。この問題については一般的に、次の四つの立場が考えられうるだろう。すなわち、
1 神も悪も存在するという立場(グノーシス主義)
2 神は存在するが実質的に悪は存在しないとする立場(弁神論)
3 神は存在しないが悪は存在するという立場 (ニヒリズム)
4 神も悪も存在しないとする立場 (楽観的な無神論)

である。本来キリスト教は第一と第二の立場のあいだを揺れているはずだが、全能の神を大前提とする第二の弁神論の立場をとるなら、悪の問題は、神の善性なるものへと都合よくすりかえられてしまうことになる。」
(P.132)

実のところ、私の立場も第一の立場と第二の立場の間にある。もう少しいうなら、第二の立場(私は思想史を専門としているので、正しくは神というよりも善そのもの(があると前提する)立場で、悪は善性の欠如の程度によって生じるという立場に近い。しかし、グノーシス主義の立場では、完全性には程遠いのだから、知によって善性に近づけるという考えにもほぼ同意しているところがあり、そういう意味で第二の立場から第一の立場の間にあるように思っている。(そのため、この4つの区分が興味深かった。とても整理されていると思う)
実際には、教育であるとか養育であるとか他性とかかわらざるをえない場合は、3、4の立場をとることはできない。善性を否定してなにか生成に繋がるとは思えないし、そういう立場からは生産的でない功利主義くらいしか生まれないのではないか。(そう思うのだが、実際の教育行政では3か4の立場の人が多いように思う)
話がずれたが、現実的と称して可能性を探らない場合は、たいていの場合、楽観的すぎる無神論に陥っており、少しも「大人」(という言葉を多用するのが好きな人が多い)の議論ではない場合が多い。
物事をとらえる場合(そしてその対策や志向を決定する場合)、こうした立場に無関係には進むことはできない。
仮に保守の立場をとる場合にも同様である。(なぜ、現行の状態を保つことが可能なのか思弁なしでは不可能)

第二の立場に立ちつつグノーシス派の思想を読むと同意する部分も多いので、それを考えることが多いのだが、それは私に不足している事柄だと自覚する所以。

本書によれば、「根源的な自由・はじまりとしての自由」をパレイゾンは神と呼んでいる。
可能態の根源というべきかもしれない。

ルネサンス時代は近代の端緒として、この自由と可能性、知識および知の問題を突き詰めた時代だと私は考えている。そして現代はといえば、近代の延長上にあったかのように思えるが実のところは、暗い方向を向いたミドルエイジに属していると思われることが多くなった。誰も現代のシステムを疑わず(あるいは疑っているがそれがニヒリズムで語られるにすぎない)、時間の概念と生と死の区分があいまいである。じつのところ、死の意識がなければ、生の意識もなくなるのではないか。古代ギリシア語において弓のもつ意味がビオスとその用途としての死に意味づけられるのと似ている。

否定の思想についてはまた改めて書きたい。何も否定による条件決定については、ニーチェを持ち出すこともなく、否定神学の系譜を論理的にみたほうが解りやすい(と思うのだが)。
こうした事柄は以前より多く語られるようになっているが、一つ危惧するのは、たしかに言葉では語れないものごと、および感覚できないものという不可能性について語ることは多々あるかもしれないが、それを言表しないでもよい、語らずとも理解せよという黙認性はそれ自体が暴力を秘めているのであまり歓迎はしていない。
言表によって明らかにすべきなのだ。あるいはそれに務めるべきなのだ...。


フィロソフィアおよびその根源にかかわる信仰について、実のところ私も迷う節があるのだが、クィンツォはこう答えているとされる。

「信仰と不信仰、信じることと信じないことのあいだには、絶対的な境界線など存在しないのだ。(中略)信仰の核心には不信仰があるのであり、信仰とは信じることと信じないことの葛藤にほかならないのである。もしそうでないとしたら、信仰は、みずからに充足してしまい、何の疑いも持ちえなくなってしまうだろう。信仰の暴力なるものは、まさしくそこに起因するのである。」(P.138)