岡田温司『イタリア現代思想への招待』(講談社)を改めて読んでいていくつか気になったことがあるので読書メモとして。
「カッチャーリは、一見すると対立するように見えるローカル主義とグローバル主義が、実は、西洋近代において表裏一体の関係、あるいは共犯関係にあることを指摘する。つまり、いまや誰も目にも明らかなように、グローバル化とは地球規模での西洋化のことにほからならないとすれば、グローバル化はまさしく近代国家の歴史全体を前提としている、ということである。」(P.116)
これは正鵠を射ている。そしてまさしくこの二つの両極かに見える動きは、共犯関係にある。双曲線を描くかのように、むしろグローバル主義はローカル主義の多数に巻き込まれながら拡大している。
先日、次期教育指導要綱改定についての説明を受けたのだが、論調として強固なのはグローバル主義に対する強迫観念的な対応(しかしながら前提が国内なため的を得ている対策とはいいがたい)と、反動的なローカル主義(「日本人のアイデンテティ」とか「地方創生」などもそれの流れにある。さらには「留学した人材をそのまま地方の行政で用いたいというような謎の要求も、なおその際の具体性は不明・説明されない)はスパイラルの構造を持って語られている。
問題はいくつかあり、まず日本の場合は近代化が十分になされないまま、ポストモダン、そして失われた20年に没入している点である。
アイデンテティについても、アイデンティティの中に国籍・日本人・日本文化(この言葉はあいまいすぎてあまり用いるのに相応ではない)があるのであって、そこにナショナリティが優越すること自体がグローバルあるいは国際的ということにもそぐわない。もっというなれば、国外へ出て初めて、国籍やナショナリティを意識するのであって、その逆は単なる帰属意識であり、自国あるいは自らの日常性に対する慢心にすぎないのではないか。
こうした慢心がナショナリズムや全体性へつながることは、すでに70年前に経験したはずなのだが。
本来ならば、高校で法と近代史を学ぶべきであろう。歴史の知識は現在の状況を客観的に分析し把握し、判断基準にすることで生きたものとなる。
いくつかある分岐点、そこを我々は自覚するしないにかかわらず直面しているのだが、現在その判断が問われていると感じるがゆえに書き留めておこくことにしたい。
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