「かつて日本のYMOが夢見た、音楽のナルシシズム空間モデルのひとつが、シンガポールには現実のものとして存在している。日本が交差点であるためには、いまだに共同体内部への内部吸引力が強すぎる。そこではあまりに日本的なニューミュジックが、日本人の肉体の二十一世紀化を阻んでいるのだ。そのためにYMOが散開したあと、彼らの実験の先にいこうとしたものは、ついにこの国では生まれなかった。」
(中沢新一 「ゲーテの耳」 いとしのマッドチャイナマン)
今年になって(なぜか)中沢新一を読み直しており、なぜかYMOを聞き直していたこともあって、この一節には頷いてしまった。YMOの音楽がナルシシズムと接近するかと言われればそれは頷き難い。しかし、たしかに日本は交差点であることを自ら放棄しているように見える2010年以降、共同体への内部吸引力が強すぎるというのは感じることである。中沢新一は、「香港」が坩堝であるといっており、交差点はシンガポールであるという。
たしかにYMO以降日韓W杯くらいまでは交差点であることも目指していたように思うのだが。
「日本」で成し遂げられることがイコール日本のことではないと思う意識が強いようだし、「生粋の日本人」」という言葉を平気でメディアが使うところもその一つではないだろうか。多言語世界と日本語のみにかかわりたい人の文化が断絶するのがグローバルの反動なのかもしれない。多元多言語的な価値観は、多言語のスキルと重なる部分があるように思う。しかしながら、日本語のみにこだわる人がでは、日本の文化や日本語に詳しいかといえばそうでもないだろう。他のものを意識しなければ、固有のものの立場も理解することは十分ではないからだ。
このテキストに挙げられているシンガポールのディック・リーを聴いたことはなく、私はシンガポールに行ったことがなく、YMOの後に彼らの先にいこうとした音楽がなかった、とはいいきれないとは思う。中沢がいいたいことはなんとなくわかる。
しかしながら、このなんとなく解る風な感覚を私はなるべく信用しないでおこうと思って自分に枷をかけており、フィーリングで理解するような風潮も「21世紀化」を阻んでいると思っている。
YMOはアメリカで「売れた後」日本に逆に輸入されたのであり、逆をいえば、アメリカ・ヨーロッパのアジア・日本へのまなざしに応えるようなノスタルジアをもっていたし、メディアは一方向の流れを持っていた。音楽の主題がアジア的なのに対して楽曲はとても西洋的だったのが売れて現在もいいと思え、わかりやすさ・アイコンにもなっていると思う。その後、ポップなものは、より内部バイアスのかかった売られ方をしているし、現在もまた過去以上に単一化し、消費されるものになっている。もはや音楽を聴く媒体を買うのではなく、ほとんど聖遺物を所有するかのような熱狂で消費・所有されて(手放されて)いる。
香港に行き、香港が坩堝であるというのは理解できる。シンガポール、バンコク、香港でもあまり国籍は関係なく、外国人に対する圧力は感じない。日本は「おもてなし」をするというが、正直これも内部吸引力が強い要素だと思う。相手のもつ一般的な作法やふるまいを考慮せず、日本式ではこうするということを売りにするのは、逆をいえば、日本好きを増やすというよりも、日本をあくまでエキゾチックなもの、またはオリエンタリズムの一端として特殊性を愛する人しか共感を呼ばないのではないか。それは本来の理解とは程遠いものだ。
ノーベル賞受賞などで垣間見える、日本人が快挙的な意見も、内部吸引性の表れである。
本来ならば、それにかわる賞を国内企業が協賛するなどして創出すればよい。
そこに〇〇は日本人ではないとか、今は日本国籍ではないとかいう意見もまたアナクロニズムの表れのようにみえる。(なぜか、昨近になり坂本龍一氏に対する(おもにネット)メディアによる批難が増えているようにも見えるのだが、これはメディア側の権力が世代交代したことによるのかどうか。つまり現在の主流なメディアがもともと立場上、反坂本だったのかどうか?なんとなく奇妙に思えるのだ)
「ゲーテの耳」におさめられたテキストは、どこか19世紀的で主観的なのだが、断片的には現在も浮遊している問題を表現しているものもある。
今日こうしたテキストをまとめた文庫が発売されるというのはあまり考えられない。例えばブログで月1で更新されるようなエッセイなどで賄えてしまい、もし発売されるとしてもこうしたスタイルではないだろう。
なんとなく、内部吸引性というか、ある世代(それはバブル時代の人、学生運動時代の人、あるいはその人たちの子どもたちの世代)には一定数の価値観が重力以上に働いてしまい、自らを省みることもできないくらいにいくつかのルート・方法、異なる価値観、考え方などを阻害してしまっているように思う。
それによって、本当に理解されるべき価値が見失われたり、言語化されないまま相互にヒステリーを起こしたり、市場価値や信頼を失うことはとても残念だと思う。
まだ間に合うかもしれないと思うので、こうして書いているのだが、あまり伝わらないかもしれない。
(実のところ中沢新一を読んでいて、自分の説明不足な文章にも反省するのである)
言語化、多言語化、より説得的な言説。
それらを克服しなければ、19世紀から20世紀のナショナリズムと民族主義・全体性の逆行に至るかもしれないと危惧している。歴史は繰り返すというが、実際にはロマン主義的連環で語れるように繰り返されるのではない。よりましになるか、より悪くなるか、いずれかの形をとるのだ。
手鞠菊 「銀座のジンジャー」BERRY BERRY 玄米グラ
エリザベート (花組公演:東京日比谷)
カンフェティのインタビュー と VISAの特集<PUCK>
2014年 印象に残った・二度以上足を運んだ展覧会
映画「グレース・オブ・モナコ」GRACE OF MONACO
- UK-JAPAN 少し早いクリスマス会
- 記事ランキング
- 輸入住宅(施主)61位
コメント