以前に、Heyselさん、yukiさんとブラングィン展へ行ったときと同じく、私にとって未知の画家・・・!
今年はスイス交流150周年なので、チューリッヒ美術展や今回のホドラー展も大規模に展覧会が企画されている。
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あまり知らない画家だったので、サイトを見ると初期の風景画が美しい。水辺を描いた光と川面の反射もやわらかい光であたりの自然が伝わっている良作。そして次第に画家としての作品を描いていく。


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気がついたのが、風景を描きながら、消失点を奥行、つまり風景の奥に設定している作品と、非常に浅い場所に設定していて、風景に奥行をあえて設定しないような描きかたが初期からみえているのだ。
隣の木の遠近感はわからなくなっていく。
のちにホドラーは、絵画における平行率やかずの論理というものを表現しはじめる。その前触れがすでに初期から中期(象徴主義に向かう前)にでていると感じた。

オリュトミーを反映した絵画はこの画家がもっとも知られるところだろう。
これは実際にドイツでは当時おこったダンス(のちのリトミックのようなもので、シュタイナー教育にも関連する)らしい。このダンス訓練をみて、インスパイアされたのが一連の作品らしい。
今回写真のほうが一緒にあったので、なるほど・・・・と思った。
壁面創作が依頼されるのがはたしていつごろからかはわからないが、実物大で構成されたパネルからして巨大だったのだろう。

地下二階の、レマン湖やスイスの山々、またはじめてのイタリア旅行へいった前後の風景画の色あいは、明るく、それでいて彼の目をとおした構成で、雲、水面、山肌の色、誰もいない(絵画にもいない!)自然をめのまえにした静寂、そして豊かさとしての素材(画の主題)を感じられる貴重な展示室である。
ここにしばらくいて、作品をながめていたいくらいだ。

近代18-19世紀を専門に研究しているHeyselさんに、いろいろと質問をしつつ漠然としていた感想がまとまっていきました。HeyselさんもUK-JAPANのメンバーで公式イベント等にご招待されたメンバーなので、いろいろ集まりが生じそうなときはお声かけております。

ネーデルランドの版画展・寓意展で、メルクリウスと12星座、ほかに最後のセクションにあった死の寓意が良作だった。

どうしてもスイスというとドイツ圏の文化が多くなるようですが、日吉キャンパスでも「フランス語圏中心のスイスシンポジウム」などが開かれていました(夏があわただしく日吉が遠くていけなかった・・・)

書くのが遅くなりましたが、忘れないうちにメモ。

人体を書く際に、キリコほどではなく、人体のパーツ化(木や土くれ)のような質感になっていくのはどうしても時代的なものなのかもしれないが、妻が死した後の絵は、最初のセクションで描かれた「死した農民」よりももっともっと乾いた何かとして描いている、ホドラーは、彼女の死に際をスケッチしているがそれには生気がある。
肉体から「魂」が「いってしまった」あとにのこる、乾燥して土くれかおがくずを集めたような乾いてもうどこの関節もうごかず、目は何も見ることがない。なぜか、この作家はこの姿を描くことで自らとの間にある自然(生死)をも精算したがているようにもみえる。痛ましい絵だが、この痛ましい絵はどこからきたのだろう。