「源氏物語〜夢浮橋」(神奈川芸術劇場)を観てきました。
大楽の公演観るのもはじめてかもしれません。
この公演は「夢浮橋」を匂の君、薫、3人の姫をそれぞれ平野良、辻本祐樹、遠山景織子の3名で描きだす試みです。ファーストキャストは恐らく、匂の君を平野良さん、薫役を辻本祐樹さんでキャスティングされ、日程後半と公演により役替わりが行われる。ミニマムかつダイナミズムな公演です。
本来ならば、ファーストキャストを見たのちの、薫=平野さん、匂の君=辻本さん、そして遠山さんでいかなる差異が生じるのかを見なければならないのでしょうが、日程上、千秋楽しか観られておりません!
それゆえの感想になります。
千秋楽公演、大楽の公演は辻本さん先行予約でチケットを取りました。
以前も少し書きましたが、源氏物語や王朝ものの舞台というとやはり瀬奈じゅん、春野寿巳礼、霧矢大夢・・・とあのイメージがあり、そしてそこでの薫を演じる辻本さんはなんとなく想像できるような気がしたのもあり、これはぜひ匂の君を演じる時を観たいということもありました。
とはいえ、この先入観に似た雛形も映像でみただけです。
今回、夢の浮橋をいかにミニマムな形で表出するのか、ということも同時に気になっていました。
浮舟の最後の言葉が消えた闇夜の時間に、しばしあの寂光の意味を考えたくなった。
正直に言いますと「源氏物語」自体に造詣は深くありません。家人があまりに源氏や王朝古典を好むために私はあまり手を出していないというのもあります(ロシア文学と同じ・・・)。私は日本美術に関してはそこそこ説明的に云うこともできますが、古典に関してはアマチュアです。しかし文学の本質と舞台の本質には何かしらの普遍性があると思うがゆえに書いておきたいと思います。
よく「スワンレイク」の批評を読む際に「オデットとは何者なのか?」とか「王子の物語なのではないか?」とかそういう問いテーマにする文がある。
この公演をみて思ったのは、「浮舟」とは何者なのか、薫あるいは匂の君とは何者なのか。
問題なのは事柄や感情よりももっと実存的な、いやそれが似つかわしくないとそれば「人の意識」とは・・という問いの発露によるのではないだろうか。
これはきわめて近代的な意識なのであって、もし紫式部が王朝時代にこれを書き残したとしたならば、古典はあらたな位置づけも可能になるだろうということだ。感情の綾よりも、己の影にいつ気が付くのか。
浮舟は「望まれずに生まれ」「認知されず隠されて生きた」のであり、浮舟が絶対的に認知されるときは、彼女の不在(死)によるのである。
宇治の水に沈む浮橋の意識が舞台空間に音声と静寂とともにあったと思われる瞬間があった。
それを受け入れることになる薫の本心、感情の発露の自然さを平野はよく演じたと思う。時折横顔からそれを強く感じた。和歌を読む場面があるのだが、そのときの佇まいが自然だった。自然だったというのは、我々はもちろん王朝時代の人も世界も直接に知ることはできないのだが、「和歌を詠むときの言葉の向き合い方というのはこういうこと」なのかもしれない、と思う場面が随所に感じられた。
匂の君の「所有」は彼の「認知」と同等の意味がある。つまり欲深いのではなく、それだけ認知を必要とすることが彼にとっての「生」なのだ。光源氏の・・・なにがしかの所有から語られるのではなく、個として生きることが適うのが「欲することそれを所有すること」なのではないだろうか。辻本祐樹演じるところの匂の君は、「思うままにふるまうがごとく」「己が真に望んでることには届かない」焦燥、強迫が生きること、呼吸するような自明さで演じられていたと思う。そして彼(匂の君)もまた、浮舟の不在によって、はじめて自らを認識するのではないだろうか。
千秋楽の舞台のあと舞台や台詞、音響の余韻から考えていたのはそんなことだった。
浮舟は、不在による顕現を意識している。これは明確である。
これを浮き上がらせたのは脚本と音響の妙だと思うほどだ。
解らないのは、薫と匂の君は、最後の最後まで実存的な感覚を覚えたのかどうか、なのだ。短くいうならばサルトル「嘔吐」のマロニエの根を意識する前後のような。もしかすれば、原作者が描きたかった「意識」とは、これほどまでに後悔し、惜しみ、哀しみを覚えてすら、実存感覚に至らない、名と力のある人間の瑣末さを丁寧に(つきはなしながらも?)描きたかったのではないだろうか、と思うほどだった。
こんなことを考えながら丸一日、家事や仕事をしつつ思ったのは、三島由紀夫の描く喪失感とそれによる認知の意識にどこか似ているし、漱石の明暗や行人などにも度々あらわれる意識なのであって、究めてモダンな感覚なのだ。先ほど、家人が古典好きだと書いたのだけれど、この話は「もののあはれ」とはそもそもどんな感情言表だったのか、という話になる。諸説あるが、「あ・はれ」はbe動詞のように受け取るのが良いらしい。アレーテイアは隠れていたものが覆いがなくなり明らかになることに関連する語であり、「あ・はれ」(もののあわれ)はこの感覚に近いと言われている。だからか、和歌では景観を通してこの意識が発露するのではないか(と最近改めて考えている)。
だから薫が和歌を詠んだときに描写される知覚は、彼にとっての真実なのだ。
パンフレットを読むと平野さんは「言葉の意味を知らないと台詞の意味が通らない、和歌に接していてそう思った」という旨の述べているので合点がいったのだった。
三人の姫を演じるにあたり、あえて差異を出さないようにしているのかもしれないのだが、中の君と浮橋はもう少し圧倒的に違ってもよかったかもしれない。
この3人の姫も考えようによれば、憧憬崇拝・女神的、産む女、生まれたことも生きることも隠蔽された存在となる。
個人的に少女趣味を肯定する気持ちはないのだが、「生死の境目、子と女の中間、人として認識される以前の存在」として浮舟の無垢さと自死は、彼女を求めた人間の闇を明るみに出すのだ。逆にいえば、無言のまま死んだ浮舟のような子は累々といるのだろう、その連なりの声の重みは終盤の闇に重なる。
思えば何千年という間にもこのように声にならない実在した生命は生まれ成熟を知らずに死に澱みの中で静寂を保っていたのだろう。それを描きだすとは・・・、1時間30分の舞台から感じたのは、文学の意味や機能を超えて、意識自体を再生することが果たして可能なのか、という想いを持った。
そして観られていない回や、役替わりでの薫、匂の君を改めて観てみたいと思った。
役替わりで一つという公演だと思うのでぜひ映像で残してほしいと思う。(DVD等で)
観ているときは、真剣に見逃すまいと思って集中しているのですが、観終わったあとにあれこれと場面が浮かんでくるのは舞台・演劇の醍醐味。リアルな瞬間が永遠に記憶され、共有されること。
舞台はフロート的な部分(円)とそれを繋ぐ直線の空間です。
絵巻物は異時同図法で描かれますが、そんな漂うような時間感覚を表現するにはよい構成だと感じました。
短く言うと、キュビズムの王朝世界という感じです。
時間の境界が曖昧なのです。季節がいつのまにか変わるような稀薄なようで確かな意識、平安の夜は異時空間であり生者の時間とは別の世界、一日のほぼ半分が灯りのない薄闇から暗闇の時間で、これを意識すると古典の世界がリアリティを帯びると言われています。そういう繊細な変化を最少の演出で可能にしたようにも思えます。
暗いのではなく、群青の・・・夜明け前の明暗。
アンケートに書き忘れたのですが、日本文学での舞台化・・・
書かなかったものであとから考えると、三島、(明るいときの)太宰治、それから高丘親王航海記、死霊(6巻)・・・とかでしょうか。
死霊の黒川は辻本さんがぜひ演じてほしいものです。
永遠に止まることのない時計台の下で・・・
私は日本文学でいえば芥川、中島敦などは素直に読め、どの時代が好きかといえば第一次戦後派で、ある程度リアリティかつタイムリーに読んでいたのは村上龍なのですが、最近はモダンすぎるのかブームなのか夢野久作あたりも舞台になっているようなので、「何が適当なのかなあ」としばし考えてしまった・・・
(雑かつフィーリングで書いてしまっていますが、blogは固定とリアルタイム性質の中間言語なので書留め程度に)
日本に限らないとすれば、スタンダール、バルザック(「セラフィータ」とか)、それからこれも役替わりでよさそうなオネーギンですね・・・
ちょっと前に「ラフマニノフ」(映画)の話題をツイートしてましたが、あの辺りの時代描写やよくわからない大正時代などはひょっとしたら舞台作品として相性が良いかもしれない。
る・ひまわりの舞台は生で観るのは初めてですが、日本文学舞台シリーズをやっているようで、そういう間口から近代文学を読む方も増えたのではないかな、と感じることも。間口が広いのは良いことでしょうし、教科書で読む作品というのは(漢字学習の影響もあって)一部改変されていたりするものです。
もし同様の上演をこうした空間で考えるなら、一点。今回のABC列はサントリーホールでいうところのP席にあたります。全方向型での舞台空間だということは最初から理解してはいますが、やはりどうしても前方後方上下(かみしも)はあることになり、台詞が聞きずらいときやどうしても表情はうかがえないということは出てきます、それも含めての空間ですしマイクなしでの舞台でよいのですが、可動席部分は席種的には差異を設けたほうが親切なのかな、とは思います。間近かつ全体も見渡せるという意味では勿論良いのですが、台詞の聞こえ方に対してちょっと勿体なかったと思うところが少しだけありました。
源氏物語が趣味とはいえない人がそれを観て聴いて、語られた言葉と表情、声色からあれこれ考えが巡り始める、そんな経験を得られた稀有な機会でした。場所も普段ならば諦めるくらいの遠さ(日吉まで往復するのも結構)かつ体調もいまいちだったのですが、諦めず観ることができて良かったと思いました。
是非映像で残して貰いたいです。
辻本さんは台詞や言動を演じるというよりその中に自己を投入して役を生きるような力量ある俳優さんなので、もしあと5公演程度匂の君、薫を演じたらまた最後には今日の殻も割れた匂の君になるような期待もあります。
結構、この世界観を役替わりでどう演じられたのか、というのは重要だと思います。
神奈川芸術劇場は良い劇場です。演目も意欲的なものが多く感じました。
(写真を後程追加できればと思います)
http://www.kaat.jp/detail?id=32616
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大楽の公演観るのもはじめてかもしれません。
この公演は「夢浮橋」を匂の君、薫、3人の姫をそれぞれ平野良、辻本祐樹、遠山景織子の3名で描きだす試みです。ファーストキャストは恐らく、匂の君を平野良さん、薫役を辻本祐樹さんでキャスティングされ、日程後半と公演により役替わりが行われる。ミニマムかつダイナミズムな公演です。



本来ならば、ファーストキャストを見たのちの、薫=平野さん、匂の君=辻本さん、そして遠山さんでいかなる差異が生じるのかを見なければならないのでしょうが、日程上、千秋楽しか観られておりません!
それゆえの感想になります。
千秋楽公演、大楽の公演は辻本さん先行予約でチケットを取りました。
以前も少し書きましたが、源氏物語や王朝ものの舞台というとやはり瀬奈じゅん、春野寿巳礼、霧矢大夢・・・とあのイメージがあり、そしてそこでの薫を演じる辻本さんはなんとなく想像できるような気がしたのもあり、これはぜひ匂の君を演じる時を観たいということもありました。
とはいえ、この先入観に似た雛形も映像でみただけです。
今回、夢の浮橋をいかにミニマムな形で表出するのか、ということも同時に気になっていました。
浮舟の最後の言葉が消えた闇夜の時間に、しばしあの寂光の意味を考えたくなった。
正直に言いますと「源氏物語」自体に造詣は深くありません。家人があまりに源氏や王朝古典を好むために私はあまり手を出していないというのもあります(ロシア文学と同じ・・・)。私は日本美術に関してはそこそこ説明的に云うこともできますが、古典に関してはアマチュアです。しかし文学の本質と舞台の本質には何かしらの普遍性があると思うがゆえに書いておきたいと思います。
よく「スワンレイク」の批評を読む際に「オデットとは何者なのか?」とか「王子の物語なのではないか?」とかそういう問いテーマにする文がある。
この公演をみて思ったのは、「浮舟」とは何者なのか、薫あるいは匂の君とは何者なのか。
問題なのは事柄や感情よりももっと実存的な、いやそれが似つかわしくないとそれば「人の意識」とは・・という問いの発露によるのではないだろうか。
これはきわめて近代的な意識なのであって、もし紫式部が王朝時代にこれを書き残したとしたならば、古典はあらたな位置づけも可能になるだろうということだ。感情の綾よりも、己の影にいつ気が付くのか。
浮舟は「望まれずに生まれ」「認知されず隠されて生きた」のであり、浮舟が絶対的に認知されるときは、彼女の不在(死)によるのである。
宇治の水に沈む浮橋の意識が舞台空間に音声と静寂とともにあったと思われる瞬間があった。
それを受け入れることになる薫の本心、感情の発露の自然さを平野はよく演じたと思う。時折横顔からそれを強く感じた。和歌を読む場面があるのだが、そのときの佇まいが自然だった。自然だったというのは、我々はもちろん王朝時代の人も世界も直接に知ることはできないのだが、「和歌を詠むときの言葉の向き合い方というのはこういうこと」なのかもしれない、と思う場面が随所に感じられた。
匂の君の「所有」は彼の「認知」と同等の意味がある。つまり欲深いのではなく、それだけ認知を必要とすることが彼にとっての「生」なのだ。光源氏の・・・なにがしかの所有から語られるのではなく、個として生きることが適うのが「欲することそれを所有すること」なのではないだろうか。辻本祐樹演じるところの匂の君は、「思うままにふるまうがごとく」「己が真に望んでることには届かない」焦燥、強迫が生きること、呼吸するような自明さで演じられていたと思う。そして彼(匂の君)もまた、浮舟の不在によって、はじめて自らを認識するのではないだろうか。
千秋楽の舞台のあと舞台や台詞、音響の余韻から考えていたのはそんなことだった。
浮舟は、不在による顕現を意識している。これは明確である。
これを浮き上がらせたのは脚本と音響の妙だと思うほどだ。
解らないのは、薫と匂の君は、最後の最後まで実存的な感覚を覚えたのかどうか、なのだ。短くいうならばサルトル「嘔吐」のマロニエの根を意識する前後のような。もしかすれば、原作者が描きたかった「意識」とは、これほどまでに後悔し、惜しみ、哀しみを覚えてすら、実存感覚に至らない、名と力のある人間の瑣末さを丁寧に(つきはなしながらも?)描きたかったのではないだろうか、と思うほどだった。
こんなことを考えながら丸一日、家事や仕事をしつつ思ったのは、三島由紀夫の描く喪失感とそれによる認知の意識にどこか似ているし、漱石の明暗や行人などにも度々あらわれる意識なのであって、究めてモダンな感覚なのだ。先ほど、家人が古典好きだと書いたのだけれど、この話は「もののあはれ」とはそもそもどんな感情言表だったのか、という話になる。諸説あるが、「あ・はれ」はbe動詞のように受け取るのが良いらしい。アレーテイアは隠れていたものが覆いがなくなり明らかになることに関連する語であり、「あ・はれ」(もののあわれ)はこの感覚に近いと言われている。だからか、和歌では景観を通してこの意識が発露するのではないか(と最近改めて考えている)。
だから薫が和歌を詠んだときに描写される知覚は、彼にとっての真実なのだ。
パンフレットを読むと平野さんは「言葉の意味を知らないと台詞の意味が通らない、和歌に接していてそう思った」という旨の述べているので合点がいったのだった。
三人の姫を演じるにあたり、あえて差異を出さないようにしているのかもしれないのだが、中の君と浮橋はもう少し圧倒的に違ってもよかったかもしれない。
この3人の姫も考えようによれば、憧憬崇拝・女神的、産む女、生まれたことも生きることも隠蔽された存在となる。
個人的に少女趣味を肯定する気持ちはないのだが、「生死の境目、子と女の中間、人として認識される以前の存在」として浮舟の無垢さと自死は、彼女を求めた人間の闇を明るみに出すのだ。逆にいえば、無言のまま死んだ浮舟のような子は累々といるのだろう、その連なりの声の重みは終盤の闇に重なる。
思えば何千年という間にもこのように声にならない実在した生命は生まれ成熟を知らずに死に澱みの中で静寂を保っていたのだろう。それを描きだすとは・・・、1時間30分の舞台から感じたのは、文学の意味や機能を超えて、意識自体を再生することが果たして可能なのか、という想いを持った。
そして観られていない回や、役替わりでの薫、匂の君を改めて観てみたいと思った。
役替わりで一つという公演だと思うのでぜひ映像で残してほしいと思う。(DVD等で)
観ているときは、真剣に見逃すまいと思って集中しているのですが、観終わったあとにあれこれと場面が浮かんでくるのは舞台・演劇の醍醐味。リアルな瞬間が永遠に記憶され、共有されること。
舞台はフロート的な部分(円)とそれを繋ぐ直線の空間です。
絵巻物は異時同図法で描かれますが、そんな漂うような時間感覚を表現するにはよい構成だと感じました。
短く言うと、キュビズムの王朝世界という感じです。
時間の境界が曖昧なのです。季節がいつのまにか変わるような稀薄なようで確かな意識、平安の夜は異時空間であり生者の時間とは別の世界、一日のほぼ半分が灯りのない薄闇から暗闇の時間で、これを意識すると古典の世界がリアリティを帯びると言われています。そういう繊細な変化を最少の演出で可能にしたようにも思えます。
暗いのではなく、群青の・・・夜明け前の明暗。
アンケートに書き忘れたのですが、日本文学での舞台化・・・
書かなかったものであとから考えると、三島、(明るいときの)太宰治、それから高丘親王航海記、死霊(6巻)・・・とかでしょうか。
死霊の黒川は辻本さんがぜひ演じてほしいものです。
永遠に止まることのない時計台の下で・・・
私は日本文学でいえば芥川、中島敦などは素直に読め、どの時代が好きかといえば第一次戦後派で、ある程度リアリティかつタイムリーに読んでいたのは村上龍なのですが、最近はモダンすぎるのかブームなのか夢野久作あたりも舞台になっているようなので、「何が適当なのかなあ」としばし考えてしまった・・・
(雑かつフィーリングで書いてしまっていますが、blogは固定とリアルタイム性質の中間言語なので書留め程度に)
日本に限らないとすれば、スタンダール、バルザック(「セラフィータ」とか)、それからこれも役替わりでよさそうなオネーギンですね・・・
ちょっと前に「ラフマニノフ」(映画)の話題をツイートしてましたが、あの辺りの時代描写やよくわからない大正時代などはひょっとしたら舞台作品として相性が良いかもしれない。
る・ひまわりの舞台は生で観るのは初めてですが、日本文学舞台シリーズをやっているようで、そういう間口から近代文学を読む方も増えたのではないかな、と感じることも。間口が広いのは良いことでしょうし、教科書で読む作品というのは(漢字学習の影響もあって)一部改変されていたりするものです。
もし同様の上演をこうした空間で考えるなら、一点。今回のABC列はサントリーホールでいうところのP席にあたります。全方向型での舞台空間だということは最初から理解してはいますが、やはりどうしても前方後方上下(かみしも)はあることになり、台詞が聞きずらいときやどうしても表情はうかがえないということは出てきます、それも含めての空間ですしマイクなしでの舞台でよいのですが、可動席部分は席種的には差異を設けたほうが親切なのかな、とは思います。間近かつ全体も見渡せるという意味では勿論良いのですが、台詞の聞こえ方に対してちょっと勿体なかったと思うところが少しだけありました。
源氏物語が趣味とはいえない人がそれを観て聴いて、語られた言葉と表情、声色からあれこれ考えが巡り始める、そんな経験を得られた稀有な機会でした。場所も普段ならば諦めるくらいの遠さ(日吉まで往復するのも結構)かつ体調もいまいちだったのですが、諦めず観ることができて良かったと思いました。
是非映像で残して貰いたいです。
辻本さんは台詞や言動を演じるというよりその中に自己を投入して役を生きるような力量ある俳優さんなので、もしあと5公演程度匂の君、薫を演じたらまた最後には今日の殻も割れた匂の君になるような期待もあります。
結構、この世界観を役替わりでどう演じられたのか、というのは重要だと思います。



神奈川芸術劇場は良い劇場です。演目も意欲的なものが多く感じました。
(写真を後程追加できればと思います)



http://www.kaat.jp/detail?id=32616
神奈川芸術劇場の作品紹介。
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舞台 「マルガリータ」 (於:六本木 EXシアター)
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http://ousia.livedoor.biz/archives/52307255.html
「源氏物語 〜夢浮橋〜」 (於:KAAT 神奈川芸術劇...
http://ousia.livedoor.biz/archives/52307909.html
La Sylphide あるいはゲール語
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9月のキーワード・モバイル版(2/1’)
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リッチー・ジェイムズ・エドワーズ "Revol" "From ...
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