「1948年、ナポリ大学の、工学の二年課程でのこと。メッゾカンノンネ街の大講義室は、嘘のように満員だった。座席を確保するために、私は1時間早く登校した。10時。私たちはレナート・カッチョポーリを待つ。彼の講義を聴こうと、ありとあらゆる人々が押しかけていた。(略)
数理分析とは何の関係もない人たち、医学部生、文学部生、やじ馬、教養人士、までもが。みんな彼の信奉者だった。
カッチョポーリが入場。いつものとおり、たいそうエレガントである。黒服を着用している。多少皺くちゃで、袖はチョークで汚れているが、ボタンホールにはクチナシのボタンをちゃんと差している。
(略)
彼が天才であることは、その挙動を一目見ただけでわかる。科学者なら当然そうあるように、彼も真面目なのだが、その眼は笑っている。じっと立ったまま、彼は一列目に座っている一青年を指差した。
「君が台所にいたとする。スパゲッティをつくろうとしていて、水で一杯の鍋がキッチンテーブルの上えに置いてある。レンジはもう点火された。君は一番目に何をするかい?」
「その鍋をレンジの上に載せます。」と青年は躊躇なく答える。
「では、その鍋がテーブルの上ではなくて、食器棚の上にあれば?」
「同じことをします。鍋をレンジの上に載せます」
「だめだ。もし君が数学者なら、まずそれをキッチン・テーブルの上に置き、それから先のケースの出発点に戻るはずだ!」
(「熱烈な折衷主義者 レナート・カッチョポーリ」 p.287-8)
数学的な問題、およびそれに類すること(パソコンのいくつかのソフトを覚えるときもそうだが)を行うとき、私が思い出すのがこのエピソードである。
「形而上学は物理学のあとにやる学問である」とアリストテレスはいったものだが、哲学はあらゆる学問と同時にまたそれ以前に少しはやっておくほうがいい(と思うし、実際ヨーロッパの高等学校では必修のことが多い)
数学は、前提からかならず出発しなければならない。
他方、前提を問う学問もある。この区別はしなければならない。
カッチョポーリはルチャーの師であって彼の著作にはたびたび描写される教授だ。そしてこのエピソードはルチャーと彼の師をよりよく語るものだと思う。
このエピソード自体が好きでよく読むのだが、少しだけ自分のことも書いておこうと思う。
私は問題を整理するときによく、上述した「だめだ。もし君が・・・はずだ」という一節を思い出すものだ。
日常のあらゆる場面で論点がずれている、ということを強く感じるときも然り。
鍋がどこにあり、レンジはまだ点火されてないのかされているのか、それらを把握したら、レンジに鍋を載せるのだ。(この比喩は日常的にパスタを作る人には理解できる説明だと思う...)
そして(もとから最前列に座るようなことはしないのだが)、第一列目の座席に座るということもしない。
よりよく物事や現象(空間でおきていること)を理解するためには、すこし間が必要だし、それは遠すぎてもいけない。ルチャーは彼の師を、では哲学史の中ではどこに措くべきか自問自答しているが、ぜひ、本文を読んで頂きたい。コラムも、本論も、とくにプラトン、アリストテレス、エレア派は理解しやすいはずだ。ただし、この本では有について実在と混同しているから、その部分は保留しながら読むほうがよい。
言葉や事柄がとかくビジーかつラウドな状態になる今日では、清涼剤、よく冷えたサンペレグリノを飲むように?感じられるだろう。
Storia Della Filosofia Graca

昨日蕾だったグラミス・キャッスル、 咲きました。よい香り。
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