疲れたまま週末を迎えてしまい、The Cure Friday I’m in love を久々に聞いていた。
自分がThe Cure the bestリリース時のcureリスナーだからかは解らない。Radioheadが神経的(社会的)に疲れているときに聴くのに向く曲が多いとするならば、The Cureは身体が弱っているときに向く曲が多い(と感じる).





自分がCureといえばこの曲かHighかという時世に接していたのを思い出す。
Highの奇妙な浮遊感はまったく古くなく、むしろ現在進行形の曲のように感じられる。
POPカルチャーを軸にして考える側としても見過ごせない動向ではないだろうか。
私はCureのリスナーが現在どのあたりに分布しているかというような調査には興味がない。
逆にいえば、おそらく、我々はこうした生態調査に同意しない形で生き延びてきたはずなのだ、好みは多層であって、変化するし多面的になるだろう。
(逆に好みでないものについては共通項が多く一義的だと思う)

いかに翻訳(翻意)するべきか。
もちろん私たちはそれを駆使する言語をしらないわけではない
むしろ豊富な翻訳はそれに応えうるに十分だという風に私には受け取れる。
言語のギャップでそれが阻まれているわけではないのだ。
だとするならば。
音楽と舞踏は言語を超えて表現に向かうものだ。



閲覧数からのLivedoorの報告数は次の通りです。


香港からマカオへ (5)The Venetian Macou, VENE

デザイン・フォー・ライフ 8月のキーワード(2-3)


舞台『マホロバ』感想 2

香港〜マカオ(3) (深せん編)写真追加

香港からマカオその(4) 上海料理 ANA香港便

<柘榴の聖母> ブルーベリー、ブラックベリーの季節

香港からマカオへ (6) St.ジョーンズ教会 (Hon



何の下調べもしないまま行った香港・マカオですが、中華をゆっくり食べる良さというのを初めて感じられたように思えます。なぜか日本での中華料理は疲れるイメージしかなく(定食になっているものを除く)
量とお茶が豊富というのは重要な気がしました。
それから広東料理と上海料理は好きですが四川が苦手だということも解りました。
とくに広東料理はおいしかったです。これがもっと南下していくと、ベトナム、インドネシアといったあっさりめのアジア料理に接続するようにも思えました。

円卓というのは上座・下座なく飲食しつつ他者と関わるという場なのですよ...合理的に使うといいと思います。
タイミングを見計らって回せばいいものをさらに慮ってというのは余計なわけです...
度々、同じ日本人と料理をとっていて、遠慮スパイラルは余計な配慮だと感じました。

合理的な考えと丁寧さというものを重ねあわせないほうがいいと思います。
丁寧さ、いやそれを超えたらやはり過度なわけです、
礼は大切ですが、ものごとの順序を相対的にしすぎないほうがいいと思うのです。
(こうした見解が主観的だという指摘は歓迎です、なにせ、12使の像を観てあまりに楽観的すぎる!と思ったものであまり参考にはならないかもしれませんが...)

そのあたりが、自分でも実践レベルで整理されてなさすぎる、と感じますが...
どのレベルでそれが問われるのか、それは解りません。
それを積極的に問いたいか、なかったことにしたいか、主観そのものを統制したいのか、個々の感触を問うのか
大したことではないと思うのか、....

そんなことを思いながら文献を読んだり、思い返したりする8月でした。

そして、日本の法や企業がもつダブスタが原因で海外資本から見放されてきているというのはさらに実感します。バンコクや香港はもぢろん古い住居や整備されていない場所も多いですが、新しく作られている場所がとても多く、その規模が大きい。人も活動的ですし、老人は少ない。
少子化は識字レベルの上昇を表すのでそれ自体は問題ではなく、高齢化と少子がセットになり、次世代を育てる社会基盤も資金も労力も不足してるのが問題なのだと思うのですよね...
しかもその問題提起も、おそらくは「自分たちの年金は出るのかどうか」くらいで本当に高齢も少子についても気にするわけでもない他者意識が気になります。





Radiohead High and dry.

レディオヘッドも初来日の川崎に行ったのを思い出します。