「わたしたちが身の回りの外的事物について知るのは、主として、知覚(perception)による。わたしたちの感覚は、何らかのしかたで、感覚を刺激する事物についての明証をわたしたちに与えてくれる。この事実を十分に説明できるのでなければ、どんな知識の理論も、真剣に取り上げるに値しない。しかし、わたしたちが知覚の本性を考察すればするほど、知覚の明証の本性を理解することは困難になる。事実、感覚の明証の問題を理解できるようになって初めて、知識の理論の本性を十分理解できたと言えるのである。」
(R.M.チザム 『知識の理論』P.89)

私にとっての思想から哲学への橋渡しをしたものの一つに、フッサールの現象学が挙げられる。現象学は現象、現れを分析するすべての学に必要だと思うのだが(特に社会科学、社会問題、国際問題等、人とものをあつかうすべてにおいて必要だと思っている。)上の文章でいうことは現象学的な問いともう一つ、知覚自体の問いが含まれている。

先日、エアコンのことを書いたが、感覚は相対的なものであると同時に、すべて相対的であるとはいいきれない。

「やけどの傷に注がれると非常に熱く感じられる同じ水が、わたしたちにはぬるいと感じられる。同じ大気が、老人には寒く、盛年の者には熱く感じられる。同様に、同じ音が、前者にはかすかに聞こえられ、後者にははっきり聞こえる。同じワインが、直前にナツメヤシ」やイチジクを食べた人には酸っぱく感じられ、木の実やひよこ豆を食べた人には甘く感じられる。浴場の玄関は、外から入ってくる者の体を暖めるが、出ていく者の体を冷やす。」
(同 P.96)

セクストゥス・エンピリクスはこのように記述した。

今日でも同様である。

またマルシリウスは、「見る」ことは「視力」の機能によるもののみでなく、見ようとする精神の動き、すなわち意志(Willだろうが)が加わることによってより「見える」ものだということを15世紀に書いている。

本書の本文では、見えること、聞こえること、に蓋然性や信念、確信、といった「知覚のみなし」について分析してコンパクトにまとめている。こうしたことは、英語文法をやっていると自然と論理を働かせなければならないのと同じで意識すると日常でも意識された振る舞いになる。

備忘録を書いているのも現在のところ論理的な事柄のみを考える必要性があるためなのだが、余分なもの、残余のもの、を切り捨てることができない性分のために必要条件にない余計なことをしてしまう・・・
のだろう。しかし解らないこと、明瞭でないことは文字を読むことで明らかなものに変わっていくのだと感じる。
加えてわれわれは言語を用いること、言表を、いかに表現するかを忘れてはならない、と思うのだが。



知識の理論
ロデリック・ミルトン チザム
世界思想社
2003-04