Bunkamura からお知らせ葉書。
以下ギャラリーに行ったあとの感想も含みます。

アンティークドールから、ハンス・ベルメールとウニカの球体関節人形、その後の四谷シモン、金子国義さんはカルチャー化したカウンターカルチャなのかもしれない。

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天野可淡さんの作品が出品されるし、中嶋清八さんの作品も気になる。
清水真理さんもお名前ありました。
搬入されている皆様からのコメントを作者さまから聞いてます。
あと吉田良さんがいないのかいるのか、この記事はお葉書を見て書いてますが。
これは訂正、清水さんが展示されてるもう一つの展示でさた。


8月はとにかく移動が多く、期間中行けたらラッキーな企画。

Twitterでいいましたが、ピグマリオン的な人形愛は個人的にはなく、素材マテリアに対するメタモルフォセ、旧約にあるような塵から創造するダイナミズム、そうして生まれかた彼彼女らの存在を確かめに行きたい。


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ギャラリー台風の日に、寄ってきました。この日しか行けるような日がなく。

中嶋清八さんの作品、葉書では解体されてましたがケースに入り、立っている状態。
かつて宵待草に秋山まほこさんと天野可淡さん合作の少年人形があり、形ではなく、存在感というかたたづまいの静けさ、沈黙するばかりではないであろう存在感をみました。
可淡の人形はやはり特別で、やはり彼女は実在論、そしてありてあらぬもの、あることを抹消されつつあるものを作り出すかただったのではないか。


なんとなく、自分の生命は天野可淡、リッチー、パスカルあたりを年数的に越えないと思っており、もし生存していても私だったものは消失するだろうという予測がつよく。
彼女らの作品をみるとメメント・モリも思い出し、アダムの死、物質としてもとめられた意味、など。

ホシノさんの作品も極めてフォヌテーヌブロー的な非人間性な人形なのだが、下肢、とくに足先や血肉のある表現があり、ちょっと考えたくなりました。

清水さんの天草四郎も恋月姫作品とくらべるのとはまたちがう存在感。

高山右近や中浦ジュリアンではなくやはり天草は特殊かつアイコンなのでしょうか。

わたしがひとがたでみたいのは天上位階にでている天使たちでできればアンジェリコ、ビザンツ、あるいは一分のカラバッジョ。image



怪物の解剖学 (河出文庫)
種村 季弘
河出書房新社
1987-02






種村氏の『怪物の解剖学』にあるピグマリオン考察が的を得ている。

隣ギャラリーでは綿引氏による『さかさまの世界』、museumでは『だまし絵展供戮任后


ピグマリオンをめぐる話では、私なりに一つ疑問があるのだが、ピグマリオンははたして「人形(人間ではない)」が「人間化」することを望んだのだろうか?私は望んでいなかったのではないかと思っている。
つまり、「作られたもの」「人間ではないもの」が「人間になりたい」(ピノキオ/人魚姫)の類の願望をもっていたかもわからず、ピグマリオン自体も、作った人形を愛したけれども、彼女が生きたものであることを望む願望とは異なるものではなかったかということなのだ。つまりピグマリオンが幸福かどうかわからないのであって、幸福に結びつける話の類とは違う。
これが江戸川乱歩になると「ひとでなしの恋」とかなり評価が低くなる。
そこまでいうのも了見が狭いという感じなのだが、今日的にもこうした傾向はみられるのではないか。
ピグマリオン的な趣味で人形を眺めていないのでそれへの愛情も実感はしないが、フィギュア愛好家などもこの系譜の通俗化したものだろうとは思う。彼らとておそらくそれらが人間化することは望んでいないのではないか。
人間化するということは関係が双方向可能になるわけであり、ピグマリオンのいうところの愛は一方的かつ非生産的なものともいえるが、そういう感情の実在とそれがドラマ(苦悩?等)をともなって、詩的エピソードとなっていること、それを題材に多くが語られたり、創造されたことが重要なのであって、実態としては非生産的であるとも人でなしでもないといえるのではないか。


種村氏の本ではマンドラゴラなどを扱っているが、私の興味はやはり中間者と天使的存在であって、天井位階論等のほうが趣味ではあるのですが、考察や分析が客観的かつ面白い。
(澁澤龍彦はどちらかといえば、事象について主観的に語る。いつからかこのお二方が双璧でプリニウスのような役割をしてくれたし、ヨーロッパ文化の特殊性の注解者だと私は思っている。