物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで [単行本]

非場所、つまり「存在しない島」。トマス・モアはエラスムスの家でこの書物を書いたとされている。しかもこれはアメリゴ・ヴェスプッチに従った船員がユートピアに上陸したという話として語られる(アメリカの語源はコロンブスに出資したアメリゴ・ヴェスプッチに由来する)

この存在しない島が理想郷としてイメージされるのはよくあることだが、プラトンも『国家』で述べているし、ルソーが想定した国というのもこの系列にあたる。
(ところでなぜかアジアでの民主主義国家の来たるべき姿というのは大方ルソーが語るところををモデルにしているらしいのだが、あまり真に受けないほうがいいと常々思っている...)

トマス・モアが語るところのユートピアは

10年ごとに家がくじ引きで決められる
日に6時間だけ働く(農民または職人 午前3時間 午後3時間)
認められる遊びはチェスのみ
・・・・

等等。

近年(いや現在でも?)私有を放棄する平等を理想とするような考えはあるのだが、問題なのは「私」という性質はなくすことが出来るのか?
私という存在はいるだけで、それだけで・・・椅子取りゲームのように、どんなに排除しようとしても取り去れない「私」という性質は残るのだ。
フランチェスコや犬儒学派の人はまとう服のみを所有したが・・・所有も適度ということなのだろうと思う。奢侈を良しと思う人もいるだろうが、限度を超えると苦痛になる(よって本来のエピキュリアンとはそうしたものではない。余談だがストア派が揶揄した話が英語になってしまっているのだ)限度、何が適度かというものをそれぞれが考えればよいし、他人に強制するのも正しいともいえないだろう。

さて誰もが午前3時間 夕方3時間働く ということがトマス・モア(1480-1535)の時代には理想として語られたのだが、今日ではどうだろうか・・・

肉体労働を軽くするはずの機械化やいつでもどこでも可能になったはずのコンピューターが発達した(しかもチューリングですらこの50年でここまで進化するとは思っていなかったらしい)のだが我々は幸福になったのかどうか?

2000年を過ぎたが実働7.5時間+休憩1・5時間(こういう休憩を休憩と呼ぶのだろうか?)くらいが標準と思われているようだが、西暦3000年くらいになれば5時間労働くらいになっているのだろうか。それともより原始的な世界になっているのだろうか。
よりましな世界になっているのかどうか。


文学とか歴史とかを学ぶのは、現在を客観視したり相対化したりして判断力を高めたり、創造力をつけたり応用したりすることに役に立つものだ。本質を理解するには音楽を学ぶのがよいし、概念理解や修辞など、リベラルアーツというものは実学の基幹を支えていると私は考えている。現在の状態がすべて、と思い込んでいると、おそらくより善いという考えも、省察もないだろう。読書をしないのは必要を感じないからなのだろうが、少なくとも上に挙げたことと、もう一つ、読む速度が上がると得られる情報が増えるという単純な理由から私は読書を薦める。

それでもスマートフォンを使う時間を制限せよ(たとえば)という訓戒の声はあまり届かないのだが。おそらく読むという行為は死を意識していなければ必要と思わないのかもしれない。
書くとか読むとか描くとか撮影するとかこれらは「死を記憶せよ」の系譜に連なる行為なのだろう。