ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)
ディオゲネス・ラエルティオス
岩波書店
1984-10-16




ポッライウォーロとサンドロ・ボッティチエリのニックネームについて書いていて思ったこと。
『芸術家列伝』の前例はディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』だろうがあだなの付け方もギリシア古典期を踏襲したのだろうか。おそらくそうだ、と考えての以下追記。

キュニコス派のアンティステネスは‘紛れもない犬’と呼ばれた。
他方プロトルネサンスのマザッチオは‘汚いトンマーゾ’である。これは絵に対する情熱のため身なりにかまわなかったためにつけられたがマザッチオは純朴な人で愛され、あだなに悪意はあまりない例。
アレッサンドロはロレンツォの遊び友達で樽(ボッティチエリ)は恐らく酒飲み的ニュアンス。

ギリシアがラテン世界で再生するのはフィレンツェ公会議以降。ロレンツォはペリクレス時代のアテネを目指した。
(それ以前は共和制ローマ)
ヴァザーリはシニョーリア市庁舎の室内装飾でギリシア文化のいわばラテン化をし、レオ10世(ロレンツォの息子)はヴァチカンのギリシア・ローマ化・共存をしている。
これは相当に画期的だ。が、ルターらはこの融合を攻撃していた。(攻撃の矛先がややずれている気もするが)
カトリックの起源にはローマ多神教・自由学芸が融合しているので、イタリアと北方では感じかたが異なるというのもあるのでは。



因みにラファエロの<アテネの学堂>も構想上、『ギリシア哲学者列伝』と『芸術家列伝』的なものを組み合わせている。自画像含め、ルネサンスの画家の集団肖像画の機能も持ち、しかも遠近法、レオナルド・ダ・ビンチ的なドラマの表現を用い、古典建築の造詣も生かされている。

『ギリシア哲学者列伝』はユーモアもありそれもヴァザーリは継承している。
あだなを愛着込めてつけているようなところも、シニカルな笑いも踏襲されている。

それにしても、この手のあだ名や通名の率直さは凄い。
恐らくだがロレンツォにつく、豪華王もこの流れによるのではないだろうか。逆に、痛風持ちのピエロ(デ・メディチ)の通名は、額面どおりではないような思える。豪華王とか、ミランドラの王子(ピコ・デッラ・ミランドラ)、アルベルティ(全能人)に対して、マザッチオやポッライウォーロの通り名よ!
それでも工房の職人から通名ある職人になり、芸術家列伝で彼らは芸術家になったのである。

同時代人が自らの価値観と審美眼、エピソードと業績を書き記し、価値付ける。
ギリシア哲学と古典期をルーツにもつ芸術家列伝だが、人文主義が規範にしたレプブリカとユマニスムの方法で纏められた記録だと思える。

もし、同時代のうちに価値付けをするならば、『ギリシア哲学者列伝』の手法を用いると良い。

因みにピコやアルベルティには天才エピソードも付随する。
ピコは本を一度読み覚えてしまい、逆からも暗唱できた、アルベルティの驚異的身体能力など。雄弁が求められたから全てを信用するわけではないが、その時代の空気や都市の様子も感じられるエピソードは愉しい。

一次資料の価値もそのあたりにある。

肖像、プロファイルは同時代性と我々(we)という意識の獲得が必要だが今日的にはどのように作用しているのだろうか。