以前「雪かきボランティア」を例にいくつかの疑問をメモした。
それに関連して、読んだ本の中で日頃感じた違和感に近い問題提起があったので追記。

「例えば、かつての政治の意味論に補足されていた「ボランティア」言説は1970年代以降、<教育>に憑依され、「活動者の成長や自己実現につながること」が「よいボランティア」の指標とされるようになった。そして、その活動経験が進学や就職の評価にも用いられる「共存状態」が作り出されていった」(「自由への問い5」(岩波書店) P.182)

本来のボランティアとは、他者を主体とし、必要性の観点から公助、つまり本来のパブリックな意味で行われるものだっただろう。 しかし昨今の行政ボランティア募集でどこか当初の精神を感じず、高圧的なものさえ感じるのはなぜか。この傾向にそのような違和感を述べる人も増えている。 これは、上記のような学校教育の枠組みからの拡散だからなのだ。
もちろん、ボランティア全般に意義を言っているわけではなく、私とて必要性の観点から、自分が持っている些細な能力でできることはいくつか関わっていることもある。

結果的に評価されることはよい。しかし評価あるいは自己実現のためのボランティアを「よいボランティア」として自然に定着させていくことには疑問が残る。特に末端行政の場面では。
「私はXをしている」ということがその人の価値になるような風潮。
ではしていなければ「やる気がない」とか「利己主義」とするような風潮はいかがなものか。

もちろん、もし「共存状態」や「評価」目的に活動を始めても、意義や価値を見つけたり仲間づくりができることは素晴らしいことだ。それ自体に異義はない。だが逆もあり、よくないこともある。

「教育的なもの」が社会全体に拡散すること、こうした動きが顕著になっていくのは1970年代以降だという。経済的に成長した時代に重なるため、私的時間や財を行政側(あるいは日本的な公)に還元させようとしたのかもしれない。

何も他者が必要と思っていることを助けるのに、公的な募集(あるいは強制)がなければできないわけでもない。即時的な補助などは日常的には多くある。それらには評価はつかないだけである。


「教育は、空間的、年齢的、システム的境界を超え、職場や市民社会へと浸潤していく。・・・ここでいう<教育>とは、<主体化されたもの/されてないもの>という区別のもと、後者から前者への変化を要請する意味論である。」(前掲書・同)

まだ「やってない人」に対して「やるべきだ、やってみたら発見がある」という説得がこれにあたる。それは主体的に決めるべきで強制や「やった人の価値を上げること」と結び付くべきではない。 (学校の強制役員もこのような要素があり、あまり活字にはならないが毎年多くの負担が囁かれる。社会が変化しても行政は変わらないため意識のギャップは不幸な状況になる) また奇妙なのは自己責任言説とよいボランティア言説が結び付く場面があるためだ。 つまり浸潤した「他者への作用 意図的自主性」が還元されるシステムが見出される。
要請した側も浸潤した側もそれには気が付かないので(なぜなら主体化されているから)今後こうした事柄が変化するかどうかはわからないのだが、ネット上にある「違和感」の正体はおそらく「助け合い」という自然な行為に不似合な「学校教育的な要請(強制的自主性)」と「よいボランティア意識」という付属品があり、その大きさが目につくからではないか、と思った次第。

*過去記事本来の意味は、社会が必要とする事柄をボランティアで解決しようとすること、への問題意識です。必要なことを抽出して予算化することが大切なのではないかということ。問題を顕在化するためにも解決するためにも、善意の作用に任せていてよいのかどうか。