井筒俊彦全集第4巻『イスラーム思想史』の第3部スコラ哲学(Falsafah)の章で書かれているアヴィセンナ、アヴァロエスについて。メモ。
アヴィセンナの「偶有」概念について。この概念はイスラーム思想史上、問題を引き起こした。
井筒はそれを 偶有と実体の関係と少し違って偶有と本質という次元で引き起こされたと書いている。アヴィセンナが存在を本質の一つの偶有として解いたところから始まるという。
事柄は存在論的に二つの要素から成り立つ。一つは現にそこにあるもの、もう一つは「人としてあること」「Xがある」というときのもの。
メモなので端的に書いていくが、限にそこにあるもの、とは私でもあなたでも花瓶の花でもいい。いずれ時間が過ぎれば死んだり朽ちたりする、またうまく作られた家具や、使えなくなった文房具などなんでもいい、そこにあるものである。
(このことで、プラトンとディオゲネスが大喧嘩になった、ディオゲネスが自分には机はみえるけど机そのものなんてものは見えない、と言ったところ、それは知が足りないからだということになり喧嘩になった。こういう議論は今日とてよく目にする。個物認識は感覚の働きでそれそのものを捉える・とらえようとするのは知(ヌース)が必要になるということ。)
だが、美しい花、良い馬というものは個物とは別にある。
これは良い馬という場合、それを満たす条件があり、その条件を満たす(十分条件的に)場合は「いいね」と言われたり評価される。
(ちなみに、「馬」の例が出されるのは、おそらく君主らにとって必要とされた知は主に治世と戦争と法のことに関するためだと思われるのだが...)
そして本質が具現化する際に能動態(どれだけか、どのようにかなど述語部分)によって個物の存在に影響する。おそらく、偶有性はこの作用に関わる。
「「本質」とそれの偶有と考えられた「存在」の関係はそうは行かない。「存在」という偶有、あるいは性質が、初めからそこにある「本質」に宿りに来るということはあり得ない。なぜなら、そこにあるとは「存在している」という意味だから。「存在」が偶有する以前の状態では、「本質」はないのであある。・・・・(P.442)
ここは「存在」という言葉をどう定めるかで解釈が異なる部分ではないだろうか。
「存在」(有)をそこにあるという意味で限定するのはおそらく実存的な立場であって、「有」を存在とするならば(ここが西洋思想の大半にも関わらず、多くは理解がぶれるところだが)、そこになくとも「存在(有)」はあるものとして「存在する」と呼ばれるのだ。
(このことは、ルチャーがパルメニデスの項目で不満を述べており、眉唾だと批判している、気持ちはわかるのだが、事態はパウル・クレーの絵画の芸術性のように曖昧にして眺めておくわけにもいかない。そこにある、ないという存在次元ではたしかに「実在しない」ことは「存在しない」と語られるのだが、そのように想定できたという可能態としてはある(有)とするのが「存在」という言葉が西洋思想史上(すくなくとも古代から近世まで)の考え方で、厳密にいえば現在でもこの立場のほうが正確だと思う。
だから存在しない、ということも一つの現象・表象であってそれは可能態×偶有性で実在の関連するといえるのではないだろうか。
段々記述が脆うくなってきたが、常々感じる訳語の問題で、「存在」という言葉がもつ物質的な特徴、人称的なイメージが理解を妨げていると感じる。日本やドイツといったアミニズムが残る地域ではこの傾向が強いように思う。神が死んだとか、神様にお願いするとかそうした志向から判断すると、なのだが。
「アヴィセンナの哲学では「可能的」は「必然的」と対立する。すなわち、「あり得ないとも限らない」し、そうかといってまた「あり得るとも限らない」ものの意である。」(P.444)
必然には疑問や偶有性はありえない。一神教の絶対性とはこの必然におっていると思う。
しかし必然的に対して、可能性という範囲が広がれば必然の決定的な力は根拠を失う、人に対しても同様で、「動くもの」「他のものになる」ことの「可能性」によって、絶対的に定められるものではなくなる。身分固定制や封建制はこの必然性を根拠にしている。
アヴィセンナの存在論体系に対してアヴェロエスが批判したのはこの点になる。
潜勢力という概念が、13世紀におこるがこれも同様である。
遇有性によって、存在はなにも定められていない、という理解は、一神教の神と人間の関係を揺るがすことになるので、イスラーム世界では歓迎されなかった。
実はこの働きは、そのままピコの思想、フィチーノ思想に現れる。
特にピコの「人間の尊厳について」(出版時のタイトルと周知されているタイトルだがピコはこのタイトルを用いてはいない。ある優雅な説教のようなタイトルだった)にはその影響がみえる。
フィチーノが「魂の不安」について書いたのも、この定められていないという本性によっていた(と思われる)。ピコの説教が比較的最初のカトリックに対する宗教改革的発言で、これがイタリアの内省的な宗教改革の動き(ミケランジェロなどにも見られる)から北方でいわゆる「宗教改革」になるのだが厳密にはこの働きよりも、イスラーム→ルネサンスの時期のほうが宗教改革的な思考であると考えられる。これはすでに自論で述べたことなのだが改めて思想史的なルーツを確認したくなる。
結果的にはピコとフィチーノは異なる結論に至るのだが、第一原因という概念を用いて「神」を説明したブルーノの思想もこのあたりが端緒になっているように感じる。(清水純一著作とブルーノ著作を参照)
『意識と本質』で語られる「本質(マーヒーヤ)」などの説明もこの巻が詳しい。だから主著『意識と本質』を読む前、あるいは合わせてこの全集4巻を読むほうがいい。
それからアリストテレスを読み返しながら接したほうがいい。
述語部分、あるいは能動態についてさらに区分して考察した論が中心になるから。
異なる目的で調べものをしていたのだが、息抜きに読んでいるうちにメモを書いておきたくなった。(図などで書いて整理していると抽象的な事柄が把握しにくくなってしまう)
おそらく間違えているか理解不十分なところがあるとは思うが、それも現在の状態...
より理解できるようになればよい。
それからこうしたことを形而上学だけの問題と思うふしにはあまり同調しない。
こうした事柄は実際のことがらの良しあしや選択に関わるためであって、極端にいえば日常的なことがらも無関係ではないからだ。)日常的なことの大半がこうした思考を延々へて選択するわけでもなかろうが、それでも無関係ではない。
法とか制度、あるいは在るもの、作られるものすべてはこの関係に連なっている。

ピコの「人間の尊厳について」の一文はここにも引用紹介されている。
ただしピコがどのような思惟でこの宣言文を挿入したかは、全編を通してから読解したほうがよいように思う。
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