日光市内を通る途中にオーソドックスの教会があり造りはゴシック式なのだそう、今回は通りすぎるだけだったが次回は立ち寄りたい。
『美と光』第二章に次のような記述がある。
「中世の人々によれば、すべて宝石というものは太陽や月の光が地上に降り、大地に浸透し結晶したものであるという。しかもそれらの目に見える光は、より高い精神界の光に照らされて輝く光なのだから、宝玉は、もともとは精神的光の凝ったものなのである。そこで、人々はルビー、サファイアなどの宝石を砕き、粉末にしてガラスに焼きこんだ。13世紀のガラスのもつ深海のような彩りは、この高貴な材質によるとさえいわれるが、この学問的メルヘンは、我々を限りない瞑想へ誘う。大地に浸透して宝石となり長年のあいだ凝固していた光が、今ステンドグラスとして背後の光に照らされ、ふたたび天上の耀きと自由のなかに燃え上がる」(p.208)
ステンドグラスに漠然と興味があった時期はあったがこういうことは考えていなかった。
宝石なども科学的な理解としてはすべて炭素として片付けられている現代の解釈とは正反対の価値観だと思う。
もちろん、その成分を分析して結論づけることは理解として正しいとは思うが、正しさの中からは美や創造というものでおそらく機能的なものしか生まれてこないのではないだろうか。
リアリティを追及する創造・クリエイティヴというものが果たして「面白いのか」と思うことと少し似ている。
(昨年認知科学やプログラミングを目指す人とその分野についての展望を一緒に考えていたときに、思ったこと)
ステンドグラスが最初に作られたのは、1140年のパリ郊外、サン・ドニ(St.Denis)修道院の院長シュジェールらしい。シュジェールはディオニシオスに対する傾倒があったといい、このことはパノフスキーも書いている。
すこし前に春にフランスに行こうかと書いていたのはこのあたりへの興味からで、シャルトル学派の興味からシャルトルへ行ってみたかったのを思い出した。私の旅の動機はほぼエウメネスのようなもので、読書→旅というもの。
時間は十分あったはずなのだが。まだ理解するだけの読書量を得ていないのでなんとなく見送ってしまった。
建築に関しては、心から良いと思えるのは古典主義と新古典主義のもので、初期人文主義者たちの考えがはっきりと表れているフィレンツェ建築に惹かれる。しかしながら、例えば、アルベルティがファサード装飾を手掛けたサンタ・マリア・ノヴェッラももともとはゴシックであり所々その名残はある。
ホテルも13世紀の修道院を改装したものなどは多くあるので、その名残を感じることはできる。
フィレンツェは英国、フランスからの観光客が多い都市だが、この街が15世紀以前の建築を多く有しておりそれが実際に使われていることが理由である。
(関連してローマの建築について「遺跡」というのはちょっと違う。ローマの建築は今なお使えるものがほとんどであり建築と土木技術の高さがうかがえる。あれらは遺跡ではない。ローマの古代建築というのが正しいと私は思っている)
芸術とかアートと言われるもの(表象されるもの)には必ずバックボーンとしての思想がある。
コンセプトといえば今日でも類似した意味になると思う。
シジェールは正面の扉に次のような刻文をのこしている。
「誰であろうとこれらの扉の栄誉を讃えようとするものは、黄金や費用をではなく、この業のための労力について驚嘆せよ。貴い業は輝く。しかし貴く輝く業は、精神を輝かしめる。それは真の光(lumina)をとおして真の光(lumen)に至るためである。」
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