現代に生きている我々が過去の重要な潮流を学ぼうとすると、どうしてもより重要(とされる)項目中心に学ぶことになるが、テキストの「重要部分」が起こるまでには、当然いくつかの段階がある。

トマス・アクィナスの前には、アルベルトゥス・マグヌスとエティエンヌ・タンピエがおり、ソクラテス以前以降のように、それ以前の流れをいちいち観ていく作業は面白い。より理解すべき事柄のビフォー・アフター的な思想・歴史があればわかりやすくなるのではないかと思うのだが。

マルシリウスの場合の思想的葛藤は、欲求「より知りたい」と敬虔さ「信仰」「禁欲」といった項目を両立させることは可能かどうかだった(と思う)のだが、異教的学芸を節度をもって文化輸入するためにはどうすれば適切か、または可能かという葛藤が見て取れる。

(今日的な感覚では、こうした葛藤はどのようなものに相応するのだろうか)

こうした態度を理解するには、おそらくマルシリウスの立場はヴァッラへのテコ入れのように捉えられるのではと思うのだが。... 
なぜフィレンツェ・ルネサンスはルネサンスと言われるのか。
それは何百年かの前提を疑いとらえ直す活動だったからである。
古代熱狂のようなものもあっただろうが、それに留まらずまた折衷主義と一言ではいえないものとして現代まで伝わっている。フィレンツェ・ルネサンスの時代に明確にギリシアという失われた文明の復興が意図されているが(それまではバビロニアやエジプトなども入り込み漠然とした古代憧憬でもあったし、単純にローマを意識している時代のほうが長かった)我々が考えるほど自然に「ギリシア」が残っていったわけではないのだ...

典型の意図的な創造は、その後おそらくはアカデミー時代のフランスへと移っていくように思う。

言論もまた典型化されていくが、テキストの読み直しとは既存の典型的読解を当時の文脈でとらえ直すことから始まる。