これまで「私化」を批判する立場から考えたり記事をかいてみてきたのだが、「コミュニティの解体」はもっと複雑に価値化されるものなのかもしれない、と最近思ってきた。

我々がコミュニティと呼んでいるものは、自明のものではない。
「私化」を論じる根拠として、都市部の自治会等の加入率を例にする場合があり、かつては私も参照してきたのだが、自治が封建時代からのものと考えると、第三次産業と給与所得者で構成される社会では、これは口でいうほどたやすく解決できる問題ではない。
自治コミュニティが不要といっているわけではなく(むしろ私は自分なりに積極的に参加しているほうではある)個人の生活が時間、場所、休日とも多様化しているのだから一律の活動にはどうしても「無理」が生じてしまう。そして、職業上こうしたコミュニティ活動への参加が「やすむ」ことへの理由としては承認されない。これは子どもの病気での休みなどでも「それくらいで」という暗黙の非難につながる。行政・学校は戦後まもなくからの慣習にのっとっており、そのころは第三次産業従事者はまだ少数だった。しかし現在は異なる。しかし慣習はそのままである。
この歪みが、無理ない参加を不可能にしてゆき、未加入の事態につながっているのではないか...。

何かもっと中間的なコミュニティの在り方ができないものなのだろうか?

私が、信心会とか兄弟会といったものに興味があるのはそんな理由があるからかもしれない。

それとは別に、人間社会は最終的にはコミュニティ解体につながる、という意見について考えている。