「言語は複数存在するという点で不完全であり、至上の言語というものが欠落している。考えることとは何の付属性もなければ、呟くこともなく、沈黙の内に不滅の言語を書くことなのだが、地上のさまざまな国語の食い違いが人に語を発することを妨げる。そうでなかったなら、語はそれ自体、物質的に真理であるたった一回の刻印によって存在するだろうに。」・・・


マラルメは、言語の不完全性質を指摘する。これは、我々が言語に携わる際、時に忘却することだ。
世界に複数の言語があることは、われわれの理解する、あるいは未知の言語の不完全性質を意味する。
それは不完全だ、しかし、言語の不可能性をただちに意味することに留まらないだろう。



「不在の花」この場合イデアを意味しない。非有の意味でもないであろう。
教養論叢を読んでいて、時々考えたテーマ。
不在の花とは、おそらくはアヴェロエスの言う一義性に近いと感じたのだが、それにはさかのぼれば、パルメニデスを考慮しないわけにはいかない。
非有、不在ということばには、意味、事柄を厳密に考える作業が必要になる。
(不在と非在は異なるのだ)
完全言語、とは可能態を意味するであろうし、それゆえに不在とも表現される(と思われる)。


われわれは、無という言葉にも、意味よりも雰囲気、イメージ、感覚でとらえようとする癖がある。それは、知ったような感じ、分かったような感じ、であり、こうした習慣が、日常についてまわっている。
(記憶、感情との経験比較によってそれを行っていることが多い)
分かったような感じの蓄積でとらえられた世界と人間、文化、法などはどのように認識されているのか。
(要するに、極めて日常生活上に関わる(関わらざるをえない)認識・行動に関わることがらについて言っているのだが)
またもともと根づいている言葉が持つ意味と、翻訳された言葉の違いによって、説明を理解する段階で認識がずれてしまう。何事かを理解する際に、了解の確認が必要で、独学のみが危険となっていたのはそのためであったと考えられる。つまり同じものを受容しても、了解が一致しなければ違う認識が生まれる。

・・・

マラルメは同時代に広く読まれたわけではない。引用した文章に戻れば、「沈黙の中に不滅の言語を書く」という部分はおそらくシュルレアリスムにひろく用いられることになる。(しかしシュルレアリスムもまた、広い手法となる際には意味は拡散されているように思われるのだが。)
言語が書かれたもととして生きるゆえに、時間、場所を限定せずにこの問いは行われ、その時代ごとに解釈がいくつかの例として提出されるのかもしれない。








新装版 普遍の鍵
パオロ・ロッシ
国書刊行会
2012-08-22