ブラックベリーがなりました。

ちょこちゃん。にこさんや、こっぽら、くろちゃんが18-9才の長寿だったためいつまでもこども扱いでしたが、もう8才。家族の帰宅を玄関で夜中まで待ったり、忠犬かつ元気です、つくづく、戌たちからはいろいろな元気を貰います。
・・・・・
などと書いていたのは、あまりにショックすぎる事柄が5日昼にありまして....、娘が学校にて昨年傷めた足と逆の、右足首靭帯3箇所を切る怪我をし...。
入学後、3年間連続です...。小学校の時は、陸上競技選手(高跳び、短距離、リレー)、サッカー、体操の模範、などなど体育活動もたくさんしていましたが、一度も怪我はありません...。バレエをやりながら運動もしてましたが(市内で個人では二位、団体では優勝)、たくさん練習もしました、バレエも勉強も両立させていました。
しかし、中学入学後、毎年1学期に毎年骨折か靭帯を切っています.....。
当然、通常の動作も難しい日常、通院も加わります、つまり夏の休みに必須の課題やスキルアップできる時間を毎年失っているのです。バレエも昨年の怪我で中断せざるをえなくなりましたし...
私がある程度、自分の腰椎狭窄症の回復ができてきたところに、再度怪我することだけは避けたいと思っていましたし、...外履き(ローファー)のまま校舎を移動するスタイルなのですが、豪雨のため廊下や通路が濡れていたようです...
昨年、一昨年のこともあり、対応は学校側も配慮してくれたとは思います...
しかし、本人も私もショックすぎて、外面上は平静を保っていますが、心中穏やかではありません、というより最早、この先何の展望も抱けない状態になっています、すくなくとも私は...
失うものが多すぎる感。何も目的が設定できない状態になっています...こうした心中が表面に出れば、家でも仕事でもよいわけがないので、私なりに繕って表層させていますが、正直なところ、「言葉がない」です。
また先日は、舞台芸術、アート、歴史文化などで数年来(もう何年だろう)仲良くさせていただいたのえるさんの御誕生日でメッセイジかカードをと思っていたのですが、4月に亡くなられたと知り、丁度私は仕事を増やした時でほとんど郵便以外のメッセイジはチェックできていなかった時だけに、こちらも言葉がない...
2月のイリ・ブベニチェクのバレエガラでご一緒して、終演後本当はお茶しながら感想や近況を話そうと予定していたのですが、私がやはり当時まだ常時コルセット着用かつ歩行もままならない状態だったので、3月頃にゆっくり話しましょうと言っていたのに。頂いた葉書や、イースターエッグ、一緒に撮った写真等...のこっているものがあること自体が貴重だと思いましたし、やはり、手紙やカード、手がきの「言葉」には生命があると強く感じる。
共有した時間や舞台、作品などを通して語った言葉も、生き続けています、私にとっては。
家族で舞台公演に行くことが多かったから、娘も夫も面識もあり。
私たちには、それぞれに与えられた「時間」があり、その限度ある時間をいかに生きて、他者と共有できるものを増やせるか、事柄、人、感慨、思われ、思考、実践等....共有することで、生まれたものが、おそらくは「生きた」といえるものなのではないかと感じる。しかしそれには、時間が不可欠なのである。「自由」(つまり自ら希み、かつ自ら責任を持つうえでの自由、放埓ではない)になる時間の欠落、それがおそらくは、「失われたもの」なのだろうと感じる。・・・・
「落ち込んでいる」とか「出口」を求めている感覚ではない。
光自体に、本来の耀きすら、もう元の通りには感じられない。
(「時」がそれを緩和できるのかもしれない、とは思うのだが)
最善に近い選択肢を常にいくつか考え、実行可能な範囲と手順を考える、のだが、...可能であるという認識よりも、不可能であるという認識が顕れてくる。可能性について、いくつかの達成の見通しの立てづらさ...
(言葉にできない、あるいは語ることや思うことにも、肯定的には思えない)
それでも何かを日々の中で積み上げなくてはならないし、僅かでも成さねばならない。



ちょこちゃん。にこさんや、こっぽら、くろちゃんが18-9才の長寿だったためいつまでもこども扱いでしたが、もう8才。家族の帰宅を玄関で夜中まで待ったり、忠犬かつ元気です、つくづく、戌たちからはいろいろな元気を貰います。
・・・・・
などと書いていたのは、あまりにショックすぎる事柄が5日昼にありまして....、娘が学校にて昨年傷めた足と逆の、右足首靭帯3箇所を切る怪我をし...。
入学後、3年間連続です...。小学校の時は、陸上競技選手(高跳び、短距離、リレー)、サッカー、体操の模範、などなど体育活動もたくさんしていましたが、一度も怪我はありません...。バレエをやりながら運動もしてましたが(市内で個人では二位、団体では優勝)、たくさん練習もしました、バレエも勉強も両立させていました。
しかし、中学入学後、毎年1学期に毎年骨折か靭帯を切っています.....。
当然、通常の動作も難しい日常、通院も加わります、つまり夏の休みに必須の課題やスキルアップできる時間を毎年失っているのです。バレエも昨年の怪我で中断せざるをえなくなりましたし...
私がある程度、自分の腰椎狭窄症の回復ができてきたところに、再度怪我することだけは避けたいと思っていましたし、...外履き(ローファー)のまま校舎を移動するスタイルなのですが、豪雨のため廊下や通路が濡れていたようです...
昨年、一昨年のこともあり、対応は学校側も配慮してくれたとは思います...
しかし、本人も私もショックすぎて、外面上は平静を保っていますが、心中穏やかではありません、というより最早、この先何の展望も抱けない状態になっています、すくなくとも私は...
失うものが多すぎる感。何も目的が設定できない状態になっています...こうした心中が表面に出れば、家でも仕事でもよいわけがないので、私なりに繕って表層させていますが、正直なところ、「言葉がない」です。
また先日は、舞台芸術、アート、歴史文化などで数年来(もう何年だろう)仲良くさせていただいたのえるさんの御誕生日でメッセイジかカードをと思っていたのですが、4月に亡くなられたと知り、丁度私は仕事を増やした時でほとんど郵便以外のメッセイジはチェックできていなかった時だけに、こちらも言葉がない...
2月のイリ・ブベニチェクのバレエガラでご一緒して、終演後本当はお茶しながら感想や近況を話そうと予定していたのですが、私がやはり当時まだ常時コルセット着用かつ歩行もままならない状態だったので、3月頃にゆっくり話しましょうと言っていたのに。頂いた葉書や、イースターエッグ、一緒に撮った写真等...のこっているものがあること自体が貴重だと思いましたし、やはり、手紙やカード、手がきの「言葉」には生命があると強く感じる。
共有した時間や舞台、作品などを通して語った言葉も、生き続けています、私にとっては。
家族で舞台公演に行くことが多かったから、娘も夫も面識もあり。
私たちには、それぞれに与えられた「時間」があり、その限度ある時間をいかに生きて、他者と共有できるものを増やせるか、事柄、人、感慨、思われ、思考、実践等....共有することで、生まれたものが、おそらくは「生きた」といえるものなのではないかと感じる。しかしそれには、時間が不可欠なのである。「自由」(つまり自ら希み、かつ自ら責任を持つうえでの自由、放埓ではない)になる時間の欠落、それがおそらくは、「失われたもの」なのだろうと感じる。・・・・
「落ち込んでいる」とか「出口」を求めている感覚ではない。
光自体に、本来の耀きすら、もう元の通りには感じられない。
(「時」がそれを緩和できるのかもしれない、とは思うのだが)
最善に近い選択肢を常にいくつか考え、実行可能な範囲と手順を考える、のだが、...可能であるという認識よりも、不可能であるという認識が顕れてくる。可能性について、いくつかの達成の見通しの立てづらさ...
(言葉にできない、あるいは語ることや思うことにも、肯定的には思えない)
それでも何かを日々の中で積み上げなくてはならないし、僅かでも成さねばならない。

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