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「哲学には、恐ろしい言葉、すべての高校生をおののかせる言葉、”存在論”がある。もちろん、存在論も元はといえば、ギリシア語の「存在の」と「研究」に由来する。したがって”存在論”とは「存在(有)の研究」ということになる。

(中略)

アオスタの聖アンセルムスは中世存在論のもっとも偉大な宣伝者とみなされえようし、今は要点に触れることにしよう。」

ここでパルメニデスの有の説明が、紀元5世紀のアテナイの様子、すなわちゼノン、ソクラテスが登場して「有(一)」についての話が語られる。

アンセルムスは(中世においては、哲学的思弁、懐疑がいかに信仰と共存可能かが問題だった)「信じるために理解する(Intelligo ut Credam)」と書き、その後はこれを改めている。。・・・1083年に没したガウニロは、「推論だけでは神の存在は証明されないだろう。信仰だけがそれが可能であり、しかも信仰は推論しないのである」

その後、英国のブラッドリは「すべて可能なものは存在する」と言及する。

さて、「真理探究」には推論は必要である。そして懐疑も、そして信仰にとってはそれらは不要であるだろう。

可能なものとは、可能態を指すとすれば、可能態は現実態に成り得るというのがよいのではないだろうか。または、すべて可能なものは、有として、つまり「ある」ものなのだ・・・ということなのだろうか?

アンセルムスをめぐってはドメニコ会、ボナヴェントゥラ、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ヒューム、ロック、カントらが(実に何年命題を提供したのだろうか)がそれぞれに応答した。

私としては、ガウニロの立場から推論について賛同する、しかしまたブラッドリがいうことの多くも理解できるように思う。可能と思われるものは、まだ実際に「実在」」していなくても、存在しないものではない、あるいは現実態は、時間、空間等ではその存在は不確実である。しかし、可能態がある場合は、有は在るもので、無にはならない。

有、在ることの価値と、無の価値基準は相違しているのでここではふれない。


一遍の読書と思索の試みを、日常的に行う。そして、存在と本質とは?すこし学んだからといってそれが、明確に語るのは難しい。また日常言語とのギャップもある。

・・・と、『物語中世哲学史』の感想とともに。

実のところ、公的機関紙用のファイル作成や手続き、web関係の契約関連、広告代理店とのやりとり等で夜、気分転換に読み返しているのです。(近況)

頭を切り替えないと、異なる内容の執筆やファイルづくりを仕上げられませんので、同時進行で頑張ります。


それにしても、高校で存在論を扱う(当然試験もある・ルチャーは数学を重視するほうの高校へ進学した。また哲学は文系に限定される学科ではもちろんない。彼のテキストはエピソードの豊富さが魅力なのだが、その理由は本来、一人の人間がどのように生き、歴史状況のもとで、どのような人々と関わり(庇護・敵対・交流・師匠・弟子)があったか、それを加えたら、何が言いたかったのか、具体例が彼らの横顔とともに浮かび上がってくるようで、それがこの書籍群の魅力。イタリアではどのように、哲学史、とくに初級内容が教えられているのだろうか?期待してしまうのだが・・・

同様に、『聖書の起源』(山形孝夫氏)もまた読んでいました。
聖書の起源 (講談社現代新書 448)
聖書の起源 (講談社現代新書 448) [新書]


物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで [単行本




最後に日常的な疑問、2つのうちから1つ。
現代の学校・・・職業選択の後回し・・・進学・・・・(就職/どのように生きるかまで含まれるのだが、先延ばしにせざるをえない進路選択状況や、青年期における自立意識と実際の自立(要するに就業)までの時間的年数期間は、数十年前より5年伸びているという社会的な問題。・・・不安がつきまとい、本当は頑張りたいと思っていることは解ってはいるものの、漠然とした不安や時期による不平等など、かつての世代が「経験的に」アドバイスするには説得力がない...


where we go?

人間の本質的に、憧れそれを求めようとすれば成長しそれに近づくことはできる。
問題は、そうした人々が「活きる」「活かす」ことができなくなっているのではないか。
加えて、例えばそれを職業にすることができないとしても、生活の中で、活かすこともできないほど時間は「削られていく」のではないか。

私は時々思うのだが、誰もが可能なリラックス・気分転換としての「観劇、アロマテラピー、音楽鑑賞、スポーツ・・」などができないほど、実際の生活では時間がない・・・のではないか・・・
話がずれてしまったが、この後に書いていたテキストが消えてしまいました。
一時保存されていたものの、消えたあとは思い出せないので、それはまた思い出したときに。
(私もまた、単なる「思い」が「思案」になることもある、と感じている。)

話を戻すと、思想史の興味深いところは、事象は思想の浸透から顕在化する。制度、法、人々の行い、価値判断などは、思想・思考による変化、定着したときに少しずつ目にみえる形で変わっていく(あるいは変わらない)。