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日伊協会よりお知らせを頂いたときから期待していたラファエロ展。否、換言するならば、ラファエロの絵画がパラッツォ・ピッティから日本に来る、遭いにいかなければ、という心境に近かった。
パラティーナ絵画館は、建築(つまり展示される部屋も)もボーボリ庭園もすばらしいので、おそらく2日かけても見どころすべてを観ることはできないし、かといって駆け足で急いでみるのも相応ではない、というか勿体無い場所。
日本からフィレンツェにいくにはやはり容易とはいえず、すでに真近に観ている作品とはいえ、足を運ばないですますには勿体無い、・・・むしろ、日本で観た<大公の聖母>にもう一度フィレンツェで逢えることを今後の生きがいにしたい、そんな感慨のもと会場に向かいました。
GW開けの週ならば、空いているのではないか?と予想し5月第2週平日に行きましたが、正解でした。
混雑で絵画がまったく見られないというような感想も拝見していましたが、混雑なく、静かな展示室でゆっくりと作品に対峙することができました。
<大公の聖母>を展示室の暗く、ディスプレイ用の照明のなかで観たとき、感嘆してしまった。
フィレンツエでは、明るい展示室で、自然光のもとに作品をみることが普通である。それがディスプレイ用の空間に浮かび上がるということは、ますます、長旅で日本まで運ばれ、展示されてここに在るのだという印象を強めた。人だかりもなく、作品に対峙することができた。嘆息していてはいけないと思うのだが、しばし嘆息してしまうものもる。しばらくして、ルネサンス期に背景が黒いことはありえず、反動宗教改革?の折にか、バロック的に背景を塗り、コントラストを強められたものなのかもしれない・・・・と漠然と思い始めた。そのあたりは展示の説明、図録にも解説があるので参照されたい。

この展示では、ラファエロ生前は、、彼がどのように周囲の画家たちから影響をうけていったかが、わかるように(無言のうちに)されている。すくなくとも私にはそう感じられた。ウルヴィーノからフィレンツェに至る彼の作品は、いくつもの変化が観られる。レオナルドの影響、ミケランジェロとも交流があった等も重要な影響かもしれないが、ラファエロ・サンツィオの絵画の静謐な要素、それは、サン・マルコ修道院(現美術館)の修道士たちによる筆のものが、深くかかわっていると思われた。フラ・バウトロメオの作品は大公の聖母との共通点が見受けられる。ラファエロはおそらく、フィレンツェに来たあと、我々が今日するように、膨大で技術的にも表現でも高度な、作品たちを目の当たりにしただろう。

さて、宮廷画家であった父・ジョヴァンニの作品<死せるキリストと天使たち>も貴重な展示だった。また、黄・ウルトラマリン・緋の三つの色を配した<父なる神、聖母マリア>も貴重な作品だと思う。レオナルドが用いた構図、色彩の調和などの例として分かりやすい。前者は、ウルビーノから、後者はナポリ・カポディモンテ美術館からの出品であって、他にもブタペスト、ヴァチカン、などから集められているので、一同に会すること自体が貴重だと思う。

マルカント・ライモンディのアポロ、キリスト教世界とギリシア・ローマ文化がどのように、いつごろから、なぜ同時に主題となりえたのか、それは私が研究したテーマでもあるのだが、あらゆる文化、社会的な動きには支えとなっている思想がある。その影響は意外と大きなものだ。

ベルナルド枢機卿の肖像画もまた、観ることができて良かった作品である。こちらも、ピッティ宮・パラティナ美術館からの出品なのだが、この作品は現地でみた記憶がなかった。ラファエロは、絵画要素では静物にあたる部分、衣服の記事、宝玉、細工された宝飾品などの描き分けが上手かった、それがローマでの仕事に繋がる一番の理由だったといわれる。レオ10世(つまりロレンツォ・イル・マニフィコの息子)の肖像画はウフィツィ美術館にあるのだが、今回来日した枢機卿の肖像画もおおいに見どころがあった。

後継者たちのセクションでは、ジローラモ・デッラ・ロッビアの作品が、フィレンツェでのルカ・デッラ・ロッビアを思い起こさせた。ルカの作品は、バルジェッロ博物館のドナテッロの間で観ることができる。今回は、フィレンツェ国立図書館から作品が来ている。

おそらく、日本でのルネサンスに対する興味が大きいことと、優れた研究者の先生が多いためか、今年はミケランジェロ・ブォナローティの展示も企画されている。こちらは、カーサ・ブォナローティから浮彫などが出品される。ミケランエロの作品は、・・・彼の作品とプロト・ルネサンス時代の作品は、建築と一体化し空間としているために現地に足を運ぶしかない!しかしそれだけの価値はもちろんある。ほとんどの作品は足を運ばねばならない。カーサ・ブォナローティにいくと、人間は何よりも「成長できる」ということを強く感じる。
願わくば、再度、確かめなければならないような問題のために、彼らの作品と生そのものに再会できることを願う。
生そのもの・・・肉体は死しても作品はのこり、見たものとの間に思いは再生する。

もし再度赴くことができなくても、彼らの作品に対峙することは、幸福、つまりこれ以上はない、という感慨を経験するものだ。

最後に、図録の印刷は上質。解説も詳細にわたっている。簡易版の図録もありますが、取り寄せを考えている場合は通常版の図録をお勧めします。



三巨匠 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ (NHK フィレンツェ・ルネサンス) [大型本]

それにしても、なぜレオナルドには「天才」というキャッチフレーズが付くのだろう?
それに対して、ミケランジェロには「神のごとき」という言葉が生前から付されていたのだが、これはあまり日本では聞かない。おそらく、作品を観るには、本気でそのためにイタリアへいく必要があるからなのだが、いうまでもなく、その価値は十分にある。
私は時々思うのだが、彫刻や建築を観るためには、少なくとも3次元における認識が必要なのではないかということ。つまり、二次元の世界を好むということ、二次元の世界により親近感を抱くということは、実のところ、3次元にいることの認識に至っていないか、あえて留まっているということなのではないだろうか。・・・時間の概念と認識が鮮明になったとき、おそらく大文字のルネサンスもまた、3次元を強く認識したのではないか、・・・フィレンツェのバルジェッロ博物館や、マザッチオのサンタ・マリア・ノヴェッラのフレスコを観るとき、それを感じる。
そしてそこには、アダムの死として、死を忘れるなの警句が、まさに三次元の画面で描かれているのである。

願わくば、アレッサンドロやリッピの絵画も展示会を・・・という希望も書き添えておきたいと思います。