6月になるとなぜか、The Cure のHighが聞きたくなる。そこでyoutubeからこのページにも掲載しようと思ったのだ、試聴していてロバート・スミスは彼らの音楽がすきで聞きたい人が観ればいいではないか、といいたげだったのでやめておきます・・・。「人は自分をけなされるよりも、自分の趣味をけなされるほうがショックや怒りを感じる」ものらしい。正鵠をえている気がするため、気になった方は聞いてみてください。Radioheadも聞きたくなります。

5月は現代英語研究会(日吉キャンパス 来往者 会議室)に出席してきました、総会、講演、ワークショップ、懇親会まで1月に続き参加しました。3月の研修は参加できず(自治会と実家の法事)大変残念でした。その際は、Y.マーテルを扱ったとのことで、報告資料などを読ませて頂きましたが、それだけでも充実していたので参加できたらさぞ充実していたことでしょう!

さて、講演会の最初の部分では、エコノミストの記事から、英国パブリックスクールの教育が、アジアで行われ始めていること、形態をかえた帝国主義に似た市場を成していることを指摘した記事。横山先生(法学部教授)の英語は本当にきれいでチアフル。そして教育、グローバル、といったことを改めて考えさせられる。
というのも、日本の大半の学校は、グローバル という言葉を安易に用いすぎており、それが何か? メリットとデメリットはということをあまり考えていないのに、コースや科の宣伝をしているのがひどく気になるからだ。

国際的 と グローバル は異なる。

講演会ではグループで翻訳などを行い、討論。半学半教で各々問題を検討して、先生の解説や見解を聞く。

文学と音楽では、レッド・ツェペリンの時代の歌詞と、アンダーワールドの歌詞、ライブアクトの様子を見て考察。
じつは来往舎の会議室について、先生とお会いした瞬間、「今日は君のためにアンダーワールドを用意したよ!」と仰っていただいたのでした(笑)
それにしてもカルチャーが鮮明なところには、サブカルチャーもはっきりとしたものになり、カウンターカルチャーもまた然り。私は最近朝5時からBBCを観ているのですが、ちらりと思ったのは、現在カウンターカルチャーは限りなく消費としてのPOPに同期しているのではないか?ということなのですが・・・
しかしPOPに結果的になっていくことはともかく、自覚がないカウンターカルチャーというものが果たしてそう呼べるのかどうか?いやむしろ、流れに任せるということが、実は究極の危険行為なのだがそれすらも気が付かない・・・ある意味ブライトな末期症状が生まれているように思われる。・・・

話をもとに戻し、詩のワークショップ。読解と朗読発表、韻、アレゴリーについてなどなど。
いつか詩をつくるというお題にも挑戦したいです。

詩の本質とはなにか、音、詩形、などなど・・・イタリア文学で詩形について学んだことがあるのですが、なかなか複雑ですし、ギリシア・ローマの詩なども、役割、規則、音声など単純な世界ではないのだなと感じます。
何事も奥が深い。

懇親会ではアラビア圏を専門とした方とも話ができてよかったです、古代〜ルネサンスまでの歴史、環地中海圏のことを、第三者である我々が知ることは、おそらく対話の梯になるかもしれないし、そうでなくても少なくとも無意味な偏見から身の回りの人を遠ざけることくらいはできるだろうから。偏見は不幸だし、不幸は連鎖しなくてもよいものだ。とにかく、いろいろな方とお会いできてよかったし、語学は常に学んでいなければ現状維持もできないな、と自らに言い聞かせたのでした。習慣づけ、持続力はいつになっても課題です。