論文を書いていたときのテキスト、『ピレボス注解』を読み返していて思ったこと。
思慮、知識、認識、心理探究などと快楽のどちらがより優れているか、人間の生のうちでより本質的なことはどちらかという命題に対する対話の注解、これらの議論は現代でも問われるべきだろう、と私は単純に思っていたふしがあるのだが、もしかしたら、現代ではこれらの事柄が問われるほど「豊か」な時代ではないのかもしれない....
単純な意味で「消費主義社会」を肯定できないにせよ、所有、消費(欲求)に類することが、人の生きるうえでの最大の目的だと考えられているとすれば、おそらく、最初に措いた問いが生まれるほどには社会が成熟していないのかもしれないのだ。・・・生きている間に、法にしろ制度にしろ、創作物にしろ、より善きもの、よりましなものをと願うのは近代以降の基本的な目的だったはずなのだが。
時間的貧困、あるいは考えたり、何を知りたいか知る必要があるかを問う前に、情報が入ってくる/遮断できない場合、我々は自由な状態なのだろうか。必要とは悪を回避する最低限度の事柄を示すと、マルシリオ・フィチーノは『ピレボス注解』で述べている。何が「必要か」考えてから探す情報や知識と、それ以前に入ってくるもの、これらは質的に異なるだろう。現代社会で私たちは結果として、多大な情報を手にするかもしれないのだが、それらが良質であるかどうかは別である、等。

自己の存在を認識しない人におそらく他者の存在は認識されないのかもしれない。
あるいは、消費社会において求められるのは、思慮よりも快楽に属する消費、所有等のみを単純に求める人びとだけであり、それが「自然」であるかのように知の領域も何らかのかたちで制御されてしまっているのかもしれないとふと思ったのだ。・・・


認識することを欲求すること、が果たして欲求の側に属するのかどうか、最初に(花がらを切りながら)思ったのはそんなことだったのだが、マルシリウスが書いた当時のことがらを考え、プラトンが著述した当時を考え、現代を考えたときにふと思ってしまった。

・・・我々の進歩は果たして、本当に進歩なのだろうか?