ベジャール・バレエローザンヌ 2013日本公演。(於:東京文化会館)
<ディオニソス組曲>が圧倒的に素晴らしかった。那須野圭右、大貫真幹の正確で真っ直ぐな矢のようなマネージュ。ポリーヌ・ヴォアザールのセメレーが素晴らしい。ギリシア人役マルコ・メレンダがベジャールの振付と世界が機能するように、またリザ・カノ、フロレンス=ルル、水夫役ガブリエル・アナレス、ヴィタリ・サフロンキーネなど其々が高い技術と持てる力のすべてを注ぎ込むことで、本来舞踏表現が持つ「生成の力」が別の時間を表出させていた・・・言葉で書くとするならば、ほとんど不可能な領域で、どんな表現もそれを表わすことができない。
こうしたことを共有すること、共有可能なものを表出させることがおそらく、ベジャールの作品の意味なのだと思う。そしてすべてのダンサーがそのことを理解していると確信できる舞台だった。(こうした感覚を観る側が感じることはほとんど稀有なことなのだが、年齢にかかわらずそのことを了解し、表現できてることが驚きだった・・・)
元々<ボレロ>をベジャールのカンパニーで観たいと思う人がまず脚を運んだ公演だったと思うのだが、とにかくディオニソス組曲が素晴らしかった。
いずれ、「ギリシアの踊り」・・・かつてミシェル・ガスカールが踊り、魅力的なあのギリシアの音楽を伴ったレパートリーを・・・このメンバーで観たいと思った。
前にも書いたことがあるのだが、ベジャール作品は、観ることでそれを受容した人の中で何かが動き始める芸術なのだと思う。結果や感情ではなく、止まったり滞ったり忘却していた生来のものが、提示される。だから観たものは”何か”・・・を得て、それを温めながら自分の生活に戻る。きわめて演劇的かつ言語的なのだが、それは結果を急がずに、くり返し問うことと思弁的留保の状態に「目覚めさせてくれる」ものなのだと感じる。
だから「ボレロ」が何を意味しているのかという質問は、自分の中で行えばよい。
尋ねられたダンサーはそれぞれその何かを一言の言語としてあらわすかもしれない。
しかし、それは答えではなく、・・・それが”何か、われわれの中にあって常には表出しないもの、しかし失われることもなく、形を変えて提示されるもの・・(等等)”であることを直に受け取ること、触れることも物質にもならないものが、形を与えられて確かにあること(esee)をgiftとして受容できること。もしあえて文字で綴るならば、この経験は・・おそらくそうしたことなのだと感じる。
![愛と哀しみのボレロ [ ロベール・オッセン ]](http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/5051/4523215095051.jpg?_ex=128x128)
愛と哀しみのボレロ [ ロベール・オッセン ]
長く絶版になっていた、ルルーシュ監督の映画も3月末にはDVD/ブルーレイで再リリースされる。おそらく前の版から10年近く(それ以上?)絶版になっていた作品なのでこの機会に注文しておきたい。
ギエムのボレロ。
1月は自宅でOn The Edgeの映像を繰り返し見ていました。
何かを模索しているときに、ある方向性を与えてくれるためだと思うですが。
それが本来の美(kalon)であって光の意味と思えるのですが、ギエムやベジャールの作品は、Natura の善性を、人間の可能性と限界を同時に表わすことを志向している所以なのか。
シルヴィ・ギエム オン・ジ・エッジ [DVD] [DVD]
出演:シルヴィ・ギエム
出版: ユニバーサル ミュージック クラシック
(2009-12-16)
<ディオニソス組曲>が圧倒的に素晴らしかった。那須野圭右、大貫真幹の正確で真っ直ぐな矢のようなマネージュ。ポリーヌ・ヴォアザールのセメレーが素晴らしい。ギリシア人役マルコ・メレンダがベジャールの振付と世界が機能するように、またリザ・カノ、フロレンス=ルル、水夫役ガブリエル・アナレス、ヴィタリ・サフロンキーネなど其々が高い技術と持てる力のすべてを注ぎ込むことで、本来舞踏表現が持つ「生成の力」が別の時間を表出させていた・・・言葉で書くとするならば、ほとんど不可能な領域で、どんな表現もそれを表わすことができない。
こうしたことを共有すること、共有可能なものを表出させることがおそらく、ベジャールの作品の意味なのだと思う。そしてすべてのダンサーがそのことを理解していると確信できる舞台だった。(こうした感覚を観る側が感じることはほとんど稀有なことなのだが、年齢にかかわらずそのことを了解し、表現できてることが驚きだった・・・)
元々<ボレロ>をベジャールのカンパニーで観たいと思う人がまず脚を運んだ公演だったと思うのだが、とにかくディオニソス組曲が素晴らしかった。
いずれ、「ギリシアの踊り」・・・かつてミシェル・ガスカールが踊り、魅力的なあのギリシアの音楽を伴ったレパートリーを・・・このメンバーで観たいと思った。
前にも書いたことがあるのだが、ベジャール作品は、観ることでそれを受容した人の中で何かが動き始める芸術なのだと思う。結果や感情ではなく、止まったり滞ったり忘却していた生来のものが、提示される。だから観たものは”何か”・・・を得て、それを温めながら自分の生活に戻る。きわめて演劇的かつ言語的なのだが、それは結果を急がずに、くり返し問うことと思弁的留保の状態に「目覚めさせてくれる」ものなのだと感じる。
だから「ボレロ」が何を意味しているのかという質問は、自分の中で行えばよい。
尋ねられたダンサーはそれぞれその何かを一言の言語としてあらわすかもしれない。
しかし、それは答えではなく、・・・それが”何か、われわれの中にあって常には表出しないもの、しかし失われることもなく、形を変えて提示されるもの・・(等等)”であることを直に受け取ること、触れることも物質にもならないものが、形を与えられて確かにあること(esee)をgiftとして受容できること。もしあえて文字で綴るならば、この経験は・・おそらくそうしたことなのだと感じる。
![愛と哀しみのボレロ [ ロベール・オッセン ]](http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/5051/4523215095051.jpg?_ex=128x128)
愛と哀しみのボレロ [ ロベール・オッセン ]
長く絶版になっていた、ルルーシュ監督の映画も3月末にはDVD/ブルーレイで再リリースされる。おそらく前の版から10年近く(それ以上?)絶版になっていた作品なのでこの機会に注文しておきたい。
ギエムのボレロ。
1月は自宅でOn The Edgeの映像を繰り返し見ていました。
何かを模索しているときに、ある方向性を与えてくれるためだと思うですが。
それが本来の美(kalon)であって光の意味と思えるのですが、ギエムやベジャールの作品は、Natura の善性を、人間の可能性と限界を同時に表わすことを志向している所以なのか。
![シルヴィ・ギエム オン・ジ・エッジ [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51jbxXp6wEL._SL160_.jpg)
出演:シルヴィ・ギエム
出版: ユニバーサル ミュージック クラシック
(2009-12-16)
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