
私用、仕事に関わらず御茶ノ水の近くにいくときは、ニコライ堂に立ち寄ることが多い。
外観だけ眺める日もあるし、時間があるときは聖堂内に入りしばし内部の椅子に座り、しばらくドームの天上を観たり、アカンサスの柱頭を観たり、考え事をしたりといった具合。
2月初旬、お茶ノ水にて東京三田会の記念行事と米山先生の講演があったので出席、その帰りにも立ち寄りました。
講演では私教育が本来のパブリックな視座を持つ教育になるために必要な事柄を幕末から明治初期、そして大正、昭和戦後に至るまでの慶應義塾の教育に照らして聞くことが出来た。
個人的に、この時期、はたして教師と教員と先生とは何か・・・ということを考えざるをえない状況で、それだけに興味深かった。
個人的な意見になるかもしれないが、「先生」と呼ぶための条件、それはおそらく学ぶものと同じ線上に立ちながら、経験的にも先人から得た知恵においても「先を歩む人、先に生きる人」という意味が不可欠のように思われる。誰に強要されることでもない。また、慣習的な呼称でもない。同じく学ぶ、研究をすることを目的としていなければ、自然に学ぶ立場から「先生」とは呼ばれないだろう。そういった意味で、慶應の学びの場というのは、質疑応答の際でも、立場をわきまえたうえで、対等な人間として対話的に行うことができるし、それが推奨されている。
これはなんでも黙って受け入れることが由とされている(おそらく疑問を持つことや、了解が不十分なままでも従うのがよい、という因習的な)大多数の教育現場と一番異なることで、もっとも重要なことのように思うのだが。
「教える」ことができるから先生なのではない、「疑問」や「問題」、より善くなることを、より追求できる視座を共有できる、出来ない事を可能にするための方法を伝え、ともに歩むことができることがその条件なのではないか・・・・などと漠然と帰宅してからも考えていた。
これは広義では私生活の場でもいえることなのではないだろうか・・・
教育心理学関連の資料を読んでいて、本来「遺伝」とは環境に適応するために常に動的なもので、生まれ持ったもの、という静的要素よりもダイナミズムの要素が強いものなのである。
人の細胞は常に生まれ変わるものなのだから、こうしたことは、こどもや未成年に限った話ではない。
(米山先生の講演では、こうした常に学ぶことを生活の一部にする事柄を、社会教育と呼ぶ時代から生涯教育と呼び方が変わったことが指摘されていた。私も同様に思うのだが、このことは果たして「公」(pubric)を「個」の集合概念と捉えるのか、または先んじて「公」が先んじてあり、個はそれを形成する一部にすぎないと捉えるのかで「社会」「公」という意味は変容してしまうだろう。私がいう「公」とは、無論、自律した個々人の集まりであり、まず個人があり、その自律した個人が他者との関係と共生で築く社会というモデルである・・・こうしたソーシャルな意味がある時期からは廃され、故に「生涯学習」というプライベートな意味に限定されていったのではないだろうか。いずれは消える肉体や蓄えた知識、経験をいかに「活かせる」のだろうか・・・
それは私が14-15世紀の文献からも抽出しようとした事、また、二度の大戦という新しくてもはや半ば忘却されそうになっている歴史的事実にも関わるし、選択の連続が身近な未来と個人、他者の生にも影響を与えてしまうということにも通じると考えられる故でもある。
無視するののは容易な事だ。
だが、時間がかかっても対話は必要だし、本当に理解するには時間も労力も惜しめない。
難しいことですが・・・
それにしても、同じ労苦を悲観的にならずに行ってきた学友と集う事はなぜこうも心強い気持ちにしてくれるのだろう!
そしてそうした場で語られる先生がたの言葉というのは、活力とあらたな視座を与えてくれる。
個人的な近況としては、2月中は天候不順で、冷えからの症状悪化で日常生活上でも苦労しました。ご連絡が散々に滞り、申し訳ない限りです。

著者:ジョン オナイアンズ
出版: 中央公論美術出版
(2004-09)

出版: 慶應義塾
(2011-01)
コメント