絵画にいわゆるサインが描かれるようになるのはいつか?
その顕著な例はデューラーであろう。時としてそれは作品の構図や美的感覚からも不必要なものに感じられる。
さて美とは何か、また絵画の役割とは何か。それは自己表出とは全くことなる、しかしそれが個人の自己表現となり何かしらの世俗的目的、名誉,名声、などの媒介となるならばそれらは単に物質的な価値しかもたない。または所有の虚飾と結びつく本来の生成の意味とはずれていくように思われる。
私性は拭いされない、というのは齋藤先生から直に聞いた言葉で私のなかではつねに問いになる言葉の一つ。
そしてエッセとはおそらく時間、場所、物質を伴わないものであり、消して形を失わないものである。
果たしてこの意味を口にしたときに対話可能なのだろうか、私はつねにそれを思う。
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著者:山内 志朗
販売元:日本放送出版協会
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力と他者―レヴィナスに
著者:斎藤 慶典
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プラトン 理想国の現在
著者:納富 信留
販売元:慶應義塾大学出版会
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山内先生の”ライプニッツ”、およびイソクラテス関連の本を読んでいます、が・・・近況をいうとコンタクトのトラブル(研究会や直にお会いした方にはちらちらと言ってましたが、作り直したのにまだ解決しません・・・。裸眼が悪すぎるんですね・・・もはや。
さらに書類と電子機器をもちつつ、自宅階段から落ちまして痛めている膝に加えて、腕から落ちたので(※あまり転ばないのでけがというけがはないんですけど・・・省エネしすぎで夕方急いでいるときに落ちました; 一段かと思ったら3段くらい残ってた>というくらい、見えてない・・・・)
ペインクリニックで神経ブロック注射と麻酔を20箇所くらいしましたが、まだ右手が麻痺しています、手書き書類のたぐいがどうにもなりません;すでにヘルニアで麻痺は経験してるのでいやな予感が・・・
本来5日に出張があったのでそのあと、ニキータさんのお店(と斉藤先生のお弟子さんがいらしゃる)ギリシア料理店にお土産をお渡しに(+歴史関係のSさんとタナカさんと久々にお会いするつもりが・・・)またいけませんで、アテネの国立考古博のポスター、頼まれたコーヒーなどを郵送でおくらせてもらいました。
送ったあとお電話したら、「着払いで送ってくださいね」「こちらからも何か送りますからね」とほんとに心からいいお店だと思います。エディアールの場所がよくわからなかったのでまた聞かなければ。
アテネの国立考古博は本当にすばらしいミュージアムとブックショップで(ただし閉店が早い!)ので、帰国後にザロフさんにもポスターを、と思ったのですが、「貼るところがないからいらない」とさっくり断られました(苦笑)
わりとポスターなどはつぶれないように厳重にかつ、これがよさそうかも、と閉店間際に選んでみたつもりですけれど!
石膏像のレプリカなどがおいてあるかといって、現地のものに関心があるわけではないんだなあ、と・・・
割と驚くことが多いです。
雰囲気の問題なのか、本当の意味で何かを追及しているのか、そのスタンスは似ているようでそうでないのかもしれません。そして底のなさの実感は、足を踏み入れてみなければわからないことが多い。・・・
デューラーに話をもどすと、メランコリアの寓意画やエラスムスを描いた作品は興味深いのですが、この画家に関する説明を読むとき、本来の題材となっているイタリアのテキストの解釈とはずれが生じていて、それも小さなずれではないので、近い分野のようでずいぶんと溝があるのだな、と感じることがしばしばあります。
外科にいく時間とコンタクトの調整にいく時間を思うと、やや気が遠くなります...



以前にみなみさんからいただいた壺焼きよう食器で、つくった片手でつくれる料理・・・娘の朝食用たまごと野菜のココット。
お会いできなっかったのでタナカさんが仕事でいかれた名古屋ういろう夏版とカレルのお茶などなどを頂戴しました。
ドロテ・ジルベールがレッスンにいっていてトークには参加できなかった娘あてに書いてくれたメッセージ入りレッスンDVDジャケット。とにこさん、アクロポリスミュージアムで選んだ彫像頭部のレプリカほか。
6月はコッポラさんの誕生日でもあり、亡くなった月でもあり・・・そして私の大切なにこさんが亡くなってもうすぐ1年なのだと、・・・パソコンにもたくさんにこさんの写真があり、19歳をこえても純粋なこいぬのようなにこさんを思い出すとやはりどんな作業をしていてもつらいものがあります。
自分に対する喪失感の類は、それほどには私はこだわりがないのですが、他者の不在は重いものがあります。
それが真なる存在(有)に近ければ近いほどにそう感じるのかもしれません。
その顕著な例はデューラーであろう。時としてそれは作品の構図や美的感覚からも不必要なものに感じられる。
さて美とは何か、また絵画の役割とは何か。それは自己表出とは全くことなる、しかしそれが個人の自己表現となり何かしらの世俗的目的、名誉,名声、などの媒介となるならばそれらは単に物質的な価値しかもたない。または所有の虚飾と結びつく本来の生成の意味とはずれていくように思われる。
私性は拭いされない、というのは齋藤先生から直に聞いた言葉で私のなかではつねに問いになる言葉の一つ。
そしてエッセとはおそらく時間、場所、物質を伴わないものであり、消して形を失わないものである。
果たしてこの意味を口にしたときに対話可能なのだろうか、私はつねにそれを思う。


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送ったあとお電話したら、「着払いで送ってくださいね」「こちらからも何か送りますからね」とほんとに心からいいお店だと思います。エディアールの場所がよくわからなかったのでまた聞かなければ。
アテネの国立考古博は本当にすばらしいミュージアムとブックショップで(ただし閉店が早い!)ので、帰国後にザロフさんにもポスターを、と思ったのですが、「貼るところがないからいらない」とさっくり断られました(苦笑)
わりとポスターなどはつぶれないように厳重にかつ、これがよさそうかも、と閉店間際に選んでみたつもりですけれど!
石膏像のレプリカなどがおいてあるかといって、現地のものに関心があるわけではないんだなあ、と・・・
割と驚くことが多いです。
雰囲気の問題なのか、本当の意味で何かを追及しているのか、そのスタンスは似ているようでそうでないのかもしれません。そして底のなさの実感は、足を踏み入れてみなければわからないことが多い。・・・
デューラーに話をもどすと、メランコリアの寓意画やエラスムスを描いた作品は興味深いのですが、この画家に関する説明を読むとき、本来の題材となっているイタリアのテキストの解釈とはずれが生じていて、それも小さなずれではないので、近い分野のようでずいぶんと溝があるのだな、と感じることがしばしばあります。
外科にいく時間とコンタクトの調整にいく時間を思うと、やや気が遠くなります...



以前にみなみさんからいただいた壺焼きよう食器で、つくった片手でつくれる料理・・・娘の朝食用たまごと野菜のココット。
お会いできなっかったのでタナカさんが仕事でいかれた名古屋ういろう夏版とカレルのお茶などなどを頂戴しました。
ドロテ・ジルベールがレッスンにいっていてトークには参加できなかった娘あてに書いてくれたメッセージ入りレッスンDVDジャケット。とにこさん、アクロポリスミュージアムで選んだ彫像頭部のレプリカほか。
6月はコッポラさんの誕生日でもあり、亡くなった月でもあり・・・そして私の大切なにこさんが亡くなってもうすぐ1年なのだと、・・・パソコンにもたくさんにこさんの写真があり、19歳をこえても純粋なこいぬのようなにこさんを思い出すとやはりどんな作業をしていてもつらいものがあります。
自分に対する喪失感の類は、それほどには私はこだわりがないのですが、他者の不在は重いものがあります。
それが真なる存在(有)に近ければ近いほどにそう感じるのかもしれません。
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