「イギリス、イースト・アングリア地方にしばらく暮らして、よく、日本とどこが違うかを訊ねられた。服装、食べ物、街の景観、人々の暮らし、そういったものに日本とは決定的に異質なもの、理解を絶するものはないように思われた。(中略)インターネットでの画一的な情報交換により、私が日本に居るかイギリスに居るかは単なる群前の違いに過ぎないかのようである。
しかし、”違い”は厳然と存在する。映像で見える形、翻訳して伝わるものとしてではなく、身体で感じ、私が全体として出会う他者として。
(中略)
カルフォルニアに暮らす友人たちを例外にして、欧米の友人たちはほとんど誰も生まれてから”eathquake”というものを経験したことがない。一度も出会ったことがない出来事を彼らは不思議がる。earthが動くことはいったいどういうことかと。私は決まってこのように説明する。東京では頻繁に地震がおこる。多いときには週に数度、日に何度も。
冷静な行動の余地を残さない大地震が訪れてしまったら、すべては運命の手のうちにあると。彼らはそんな私の言葉を、理解を絶する話としか受け取れない。しかしこれは、決して地球物理学の理論的説明ではなく、身体が覚える反応とそれを許容させる世界観なのである。」 (『空間へのパースペクティヴ』P.26)
納富信留先生の『空間へのパースペクティヴ』から引用。
地震についての例から、風土、文学・・・・・根付いた厳然とした違いが明確に語られている。
空間へのパースペクティヴ
販売元:九州大学出版会
(1999-05)
販売元:Amazon.co.jp
われわれはこの感覚を忘却したりないものとすることはできない、・・・おそらくそれを失ったら、母国語を失う以上に何か重要な、より正確にいえば、初めから与えられているであろうアイデンティティと正しい判断ができる最初の感覚が濁ったものとなるのではないか。
私がうすうす感じていることがら、問題が、明確な言葉で語られている。
私は書店注文(ネット注文ではなく)して取り寄せ中なのだが、図書館で借りてぜひ読んでもらいたい本です。
しかし、”違い”は厳然と存在する。映像で見える形、翻訳して伝わるものとしてではなく、身体で感じ、私が全体として出会う他者として。
(中略)
カルフォルニアに暮らす友人たちを例外にして、欧米の友人たちはほとんど誰も生まれてから”eathquake”というものを経験したことがない。一度も出会ったことがない出来事を彼らは不思議がる。earthが動くことはいったいどういうことかと。私は決まってこのように説明する。東京では頻繁に地震がおこる。多いときには週に数度、日に何度も。
冷静な行動の余地を残さない大地震が訪れてしまったら、すべては運命の手のうちにあると。彼らはそんな私の言葉を、理解を絶する話としか受け取れない。しかしこれは、決して地球物理学の理論的説明ではなく、身体が覚える反応とそれを許容させる世界観なのである。」 (『空間へのパースペクティヴ』P.26)
納富信留先生の『空間へのパースペクティヴ』から引用。
地震についての例から、風土、文学・・・・・根付いた厳然とした違いが明確に語られている。
空間へのパースペクティヴ
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われわれはこの感覚を忘却したりないものとすることはできない、・・・おそらくそれを失ったら、母国語を失う以上に何か重要な、より正確にいえば、初めから与えられているであろうアイデンティティと正しい判断ができる最初の感覚が濁ったものとなるのではないか。
私がうすうす感じていることがら、問題が、明確な言葉で語られている。
私は書店注文(ネット注文ではなく)して取り寄せ中なのだが、図書館で借りてぜひ読んでもらいたい本です。
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