埴谷雄高(必ずしも思想・文学的に同調できるわけではないのだけれど)の葬儀にいき、お別れの会でに出たたとき(19才でした)も思ったことだが、
同じ時代に同じ地上でギエムのアジュー(bye)を2回観られた観客として彼女と機会を与えてくれたすべての人に感謝。
グールドの旋律に完全に一体化するように、空間をノックするギエムはまるで・・・ヴェートーヴェンが「運命」をつくるときに「ノックする」ようでもあり、もっと身近なひとたちに、「あなたはどう?わたしはここにいる」と言っているよう・・・・
この動画を一番必要としているときに伝えてくれたnaomiさんに感謝。
ギエムのプロジェクトを支えたすべてのダンサー、スタッフ、オーケストラ、演奏者に感謝。
私たちは時が許すまで、たとえ苦痛しか感じなくとも諦観したり、投げ出すわけにはいかない。
彼女や、彼女の共演者がいる限り。
同時代に地上にいるものである限り。
私にできることは、ルチャーもいっているように・・・・多くの人が必要な書物を手にするまでの、
あの図書館にある踏み台の1段目か2段目かと思っています。
3段目にのぼり、手をその書物・テクストにのばすかどうか
いまはなき人々の声を伝えようと訳した人の言葉の向かい合うか否か。
三段目からその先は、一人ひとりに向けられている。
もちろん、私もその数万のうちの一人にしか過ぎない。
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